第十五章 銀星号事件 (四)
シャーロットとワトソンは、ステラに連れられ、イングランド南西部の荒野・ダートムアを訪れていた。
ステラたっての願いだった。
ステラは当初、一人で行くつもりだった。しかし、以前ワトソンとカフェで交わした会話を思い出し、どうしてもシャーロットとワトソンを連れていきたくなったのだ。
ワトソンは、最初は乗り気ではなかった。それが、ステラの一言で変わった。
「たまには旅行するのも、よい気分転換になりますよ」
そうだな。最近は事件ばかりだ。少しくらい、のんびりするのも悪くない。ちょうど大型連休があるし、学園の講義も休みになる。
「シャル、ステラと一緒に旅行に行かない?」
珍しくワトソンから誘われ、シャーロットは少し考え込んだ。
事件の報告書はない。研究も今は停滞している。
あ、でも、花壇の水やりをしないと。
「花壇の水やりなら、庭師の人に頼んであるわよ」
ワトソンは先手を打った。
基本的に、シャーロットは自分の関心事以外にはひどく出不精だ。彼女を連れ出すためには、何重もの準備と、それを押し切る勢いが必要になる。
「そう。分かったわ」
「それで、どこに行くの?」
ダートムアは、イングランド南西部に位置している。広大な荒野と牧草地が広がり、農業や牧畜が盛んな土地だった。
そして、この土地にはもう一つの特徴がある。競走馬の飼育が盛んなのだ。
有力な貴族たちも、この土地に厩舎を構え、優秀な競走馬を育てている。馬好きの間では、聖地とも呼ばれていた。
どのような伝手を使ったのかは分からないが、ステラは、ある貴族が所有する厩舎へ招待されていた。
道中、ステラは飽きることなく馬の話を続けていた。シャーロットは、その話を楽しそうに聞いている。
人の話を聞いていないように見えて、実のところ、シャーロットは人の話を聞くのが好きだった。
たとえ、とりとめもなく流れていくだけの話であっても、そこから話し手の思考や嗜好を読み取ることができる。シャーロットにとっては、それもまた興味深い観測の一つだった。
ワトソンは、そんな二人の会話を聞き流しながら、魔導列車の窓から移りゆく景色を眺めていた。
そういえば、こうして列車でどこかへ出かけるのは久しぶりだな。途中の駅で買った弁当を食べながら、のんびり旅をするのも悪くない。
モフモフは、椅子で丸くなっている。
やがて、魔導列車は目的の駅へ到着した。
ステラは軽く体を伸ばしたあと、周辺の地図を確認する。三人は牧草地の間を通る道を歩き、目的の厩舎へと向かった。昨日の大雨で足元にぬかるみがあり少し歩きづらかったが。
有名な競走馬を、これほど間近で見る機会など、もう二度とないかもしれない。そう考えると、ステラは自分が予想以上に緊張していることに気づいた。
ところが、厩舎に着くと、作業員たちが何やら激しく言い争っていた。
「あの、どうしましたか?」
ステラは、仕事で使う落ち着いた声で尋ねた。
「馬が……馬がいなくなったんだ。シルヴァー・ブレイズが!」
その名前を聞いた瞬間、ステラは軽いめまいを覚えた。よろめいたステラの体を、ワトソンが慌てて支える。
一方、シャーロットは、いつの間にか厩舎の中へ勝手に入り込んでいた。
外から扉を壊された形跡はない。内部から壊された様子もなかった。
つまり、馬が自力で逃げ出したとは考えにくい。
誰かが、扉を開けて連れ出した。厩舎の職員か、あるいは調教師か。内部の人間が関与している可能性が高い。
厩舎の中を調べていたシャーロットは、床に落ちている小さな破片を見つけた。
ナイフの一部だろうか。
いつの間に用意したのか、シャーロットの両手には白い手袋がはめられていた。彼女はハンカチを取り出すと、その破片を慎重に包み込んだ。
「何か見つけたの?」
ステラのめまいが収まったのを確認し、ワトソンはシャーロットに近づいた。
厩舎の中には、馬と干し草の匂いが濃く漂っている。ワトソンは、わずかに眉をひそめた。
「ええ」
シャーロットは、ハンカチに包んだものをワトソンに見せた。
「これは何?」
「おそらく、金属製の毛掻きの一部ね。かなり使い込まれているわ」
馬の手入れをしている最中に折れたのだろうか。しかし、折れた根元の部分だけ、わずかに金属の色が変わっていた。
「何事だ!」
ひときわ大きな声が、厩舎の周囲に響き渡った。声とともに、大柄な男が足早に近づいてくる。
男はシャーロットのそばまで来ると、鋭い視線を向けた。
「誰だ、お前は?」
「馬がいなくなったみたい。おそらく、内部犯行ね」
質問に対する答えとしては、ひどくずれていた。
ここは貴族が所有する厩舎である。そして、この大柄な男は、おそらくその所有者だ。
ようやく衝撃から立ち直ったステラは、慌てて男の前へ駆け寄った。
「お初にお目にかかります。ロス伯爵でいらっしゃいますか。私、監視局補佐官のステラ・ホプキンスと申します。本日はヴィクトリア王女殿下のご厚意により、こちらの厩舎を見学させていただくお約束をいただいております」
ロス伯爵は、ステラを見下ろした。二人の身長差は、まるでクマとリスほどもある。
その様子を見て、ワトソンはわずかに微笑んだ。
「ああ、そうか。君たちがそうなのか。では、その子がシャーロット嬢で、そちらが藍色の髪の天使か」
ロス伯爵からは、先ほどまでの剣幕がすっかり消えていた。どことなく、うれしそうでもある。
悪い人間ではないのだろう。貴族にしては、感情が表に出やすい人物らしい。
しかし、ステラはワトソンに対する呼び方が気になった。
藍色の髪の天使。
そのように呼ばれることを、ワトソンはあまり好んでいないはずだ。
「こんにちは、ロス大佐」
ワトソンは伯爵の言葉を気にした様子もなく、軍人時代の階級で呼びかけた。
「ああ。よく来てくれた。それより、馬がいなくなったらしいな。どの馬だ?」
近くにいた厩舎の職員が答えた。
「シルヴァー・ブレイズです」
「な、なんだと……。逃げたのか?」
職員は首を横に振った。
「分かりません。朝、確認したときには、すでにいなくなっていました」
「ほかの馬はいるのか?」
「はい。ほかの馬は、すべて無事です」
ロス伯爵は険しい表情で厩舎の中へ入った。
「どうなっている。そうだ、調教師はどこにいる?」
「それが、連絡が取れません」
「調教師も逃げたのかしら?」
シャーロットが尋ねると、ロス伯爵は首を振った。
「分からん。朝、馬がいなくなったと報告を受けたばかりだ。事情を知る者もいない」
「厩舎に壊された形跡はないわ。昨夜、鍵は掛けていたのかしら?」
「毎晩、馬の状態を確認したあと、必ず施錠している」
いなくなったのは、一頭だけ。
無差別な馬泥棒なら、ほかの馬にも手を出していておかしくない。
それにもかかわらず、連れ去られたのはシルヴァー・ブレイズだけだった。しかも、大きなレースへの出走を控えた優勝候補の馬である。
偶然、その一頭だけが選ばれたとは考えにくい。
何者かが、最初からシルヴァー・ブレイズを狙っていた可能性が高かった。




