第十五章 銀星号事件 (三)
グレゴリーは今、ロス伯爵の屋敷を訪れていた。
この状況を、どう判断するべきか。
馬泥棒。
本当に、それだけのことで済むのだろうか。
本来ならば、王宮親衛隊が行うような捜査ではない。
だが、今回は第一王子から直接指示が下っていた。
第一王子は、王宮親衛隊の最高責任者だ。
それでも、捜査局が第一王子から直接指示を受けることなど、ほとんどない。
「珍しいですよね。上から直接指示が来るなんて」
隣を歩いていた補佐官の男が言った。
捜査局補佐官、セドリック・ヒュー・フェアファクス。
貴族家の三男でありながら、出世につながりにくい捜査局を自ら希望した変わり者だ。
グレゴリーが彼の親なら、親衛局か警護局に入ってほしいと考えるだろう。
捜査局では、貴族社会で役立つ人脈を築きにくい。
だが、セドリックはそんなことを気にしていなかった。
市民出身であるグレゴリーにも分け隔てなく接する。
人当たりもよく、局内では部下や同僚から慕われていた。
やはり、変わった男だ。
「そうだな。面倒なことになりそうだ」
上からの指示など、ろくなものではない。
それは前の事件で十分に味わった。
それでもグレゴリーは、面倒な事件の気配をどこかで楽しんでいた。
今回、姿を消したのは、アリスター・ジェームズ・ロス伯爵が所有する競走馬。
王族杯の優勝候補、シルヴァー・ブレイズだ。
この失踪が明るみに出れば、不正行為を疑われる可能性がある。
王族の威信を守るために、意図的に出走を取りやめたのではないか。
そんな、あらぬ噂が広まるかもしれない。
貴族は、何よりも家の尊厳を重んじる。
しかも、ロス伯爵は軍部と近い。
近すぎるほどに。
その背後には、第二王子の影がちらついていた。
だからこそ、第一王子は魔法省監視局ではなく、王宮親衛隊の捜査局を動かしたのだろう。
グレゴリーは、そう考えていた。
ロス伯爵の屋敷を訪ねると、すでに数人の客人がいた。
そのうちの一人には、見覚えがある。
銀髪の少女。
愛想のない顔と、冷たい視線。
以前、事件現場で見かけた顔だ。
シャーロット。
顔は知っているが、話したことはない。
どう見るべきか。
吉か、凶か。
グレゴリーは指先でコインを弾いた。
宙を回ったコインを手の甲で受け止める。
裏。
もう一人は、監視局の補佐官。
ヴィクトリア・アレクサンドラ王女殿下のお気に入りだという女性だ。
この二人には、何かつながりがあるのか。
もう一度、コインを弾く。
表。
最後の一人は、藍色の髪をした女だった。
誰だ?
知らない顔だ。
グレゴリーは三度目のコインを弾いた。
表。
悪くはない。
「失礼する。王宮親衛隊捜査局だ」
グレゴリーは、その場にいる全員に聞こえるよう声を張った。
まずは、反応を見る。
シャーロットは、興味深そうにこちらを見た。
監視局の補佐官は、驚いた表情を浮かべている。
藍色の髪の女は、こちらを気にする様子もなく紅茶を飲んでいた。
「捜査局? 珍しいわね。馬を探しに来たの?」
シャーロットが、当然のように話しかけてくる。
すでに知っているのか?
情報が早い。
「ああ、そうだ。君も捜索に来たのか」
「いえ、違うわ。観光よ」
「そうか」
隠しているのか。
それとも、本当に観光なのか。
「それで、捜査局が直々に捜査をしてくれるのだな」
扉の向こうから現れたロス伯爵が言った。
「はい。王宮親衛隊からの指示ですので」
ただの馬泥棒なのか。
それとも、王族杯への妨害なのか。
王族への聞き取りに、貴族への対応。
どちらにせよ、面倒なことになる。
三日後のレースは中止にできない。
だが、優勝候補の馬が出走しなければ、不正を疑う者は必ず現れる。
「ちょうどいい。君たちにも聞いてほしい」
ロス伯爵の言葉に、グレゴリーはわずかに眉を上げた。
いいのか?
ロス伯爵とシャーロットは、知り合いなのだろうか。
そのとき、藍色の髪の女が話を遮った。
「いえ、聞かないわ。行くわよ、シャル」
「そう? 楽しそうじゃない、ワトソン」
シャーロットは目を輝かせている。
ワトソンと呼ばれた女は険しい顔をし、監視局の補佐官は困ったように二人を見ていた。
「よし。では、話そう」
ロス伯爵は全員を見回した。
「先ほども話したが、私の所有馬であるシルヴァー・ブレイズが姿を消した」
そこで一度、言葉を切る。
「そして、調教師のジョン・ストレイカーが死んでいた」
調教師が死んでいた。
聞いていた情報とは違う。
死者が出ているのか。
グレゴリーは頭の中で、これまで考えていた捜査方針を組み直した。
これは、単なる馬泥棒ではない。
「分かっていると思うが、三日後にはロイヤルアスコット杯がある。私は、これにすべてを懸けている」
ロス伯爵は、わずかに肩を落とした。
威厳のある大きな体が、今だけは小さく見えた。
ロイヤルアスコット杯での勝利。
それは、貴族にとって最高峰の名誉の一つだ。
手に入るはずだった名誉が、目前で零れ落ちようとしている。
落胆するのも無理はない。
長年、王族や貴族たちを見てきたグレゴリーは、そう思わずにはいられなかった。
王族と違い、貴族の地位は絶対ではない。
一度の失敗で凋落することもあれば、一つの名誉が家門を末代まで支えることもある。
大議会の権力争いに加わらず、王族との関わりも少ない貴族にとって、競馬や軍功で得る名誉は、家の価値を守るための大きな支柱となる。
だが、ロス伯爵が次に口にした言葉は、家の名誉を求める貴族のものではなかった。
「儂は、ただ見つけてほしいだけだ」
それまでの格式張った「私」ではなかった。
それは、自分の子供を心配する親の声だった。




