講義の始まり
「数字こそが世界の共通言語である。数学は世界のルールである。そして、科学は未来になる」
講義室にいる学生は数人だけだった。
ほとんどの者は講義を聞いていない。講義帳を開く者もなく、必須科目でもないこの講義は、出席名簿に名前を書けば単位が与えられる。そのため、名前だけ記して姿を消す学生がほとんどだった。
それでも毎回、何人かは最後まで席に残る。
しかし今日は、いつもと違った。
見慣れない一人の学生が、一番後ろの中央の席に座っている。まるでそこが自分の定位置であるかのように。
学生は教授が黒板に書く数式を鋭い目で追いながら、手にしたペンを一定のリズムで指先に打ち付けていた。
「科学の未来は、魔法の誕生によって入れ替わったのではないのですか?」
講義が終わるのを待っていたかのように、学生が問いを投げる。
普段は教授の声とチョークの音しか響かない講義室に、久しぶりの質問が響いた。
教授は声の主へ視線を向ける。
その目は不快そうではない。むしろ、久々の議論を歓迎しているようだった。
「科学は常に前へ進んでいる。魔法のように不安定でも不確かでもない。そして何より、公平だ。だからこそ、人は未来を託すことができる」
「つまり、魔法は未来の希望にはなり得ない、と?」
「そうだ。人々に必要なのは、公平な理論だ。魔法にはそれがない」
「公平が、それほど必要なのですか?」
講義室の空気が変わる。
今まで興味を示していなかった学生たちまで、二人のやり取りへ耳を傾け始めた。
教授は嫌な顔一つしない。
ただ静かに答える。
「必要というより、秩序の条件だ。すべての者に等しく与えられる理論がなければ、世界に秩序は生まれない」
「でも、魔法は人々を包み込むことができるわ」
「それは魔法を扱える者だけだ。魔法を扱えない者の方が圧倒的に多い」
「魔力導管のおかげで、今では誰もが魔法の恩恵を受けています。市民生活には欠かせないものです」
「ああ。しかし、それが魔力導管である必要はない。あれは最低限の命綱を渡しているだけだ。本質ではない」
「本来の魔法を扱える者は、ごく限られている」
「今はまだ。でも、いつか誰もが使えるようになるわ」
教授は首を横に振った。
「人は、そこまで賢くはない」
二人の思想は、どこまで行っても交わらなかった。
ロンドンには二つの大きな学園が存在する。
一つは、魔法都市ロンドンの象徴ともいえる魔導学園。
魔法の研究と発展を目的に設立され、国内外から魔法の才能を持つ者が集められる。この都市を支える魔法技術のほとんどは、この学園から生み出されていた。
もう一つが王立学園である。
王国を支える行政官や技術者、研究者を育成する教育機関。
かつては、この学園を卒業することが将来の成功を意味していた。
しかし、魔導学園の設立によって状況は変わる。
魔法を扱わない、唯一の高等教育機関となったのである。
魔法は、本来、誰もが扱える力だった。
そう唱えた研究者が、かつて存在した。
しかし魔法省の設立と時を同じくして、その考えは消えていく。
政府は魔法を管理する道を選んだ。
魔法適性という基準を作り、魔導学園を設立し、魔法を扱える者を限定していく。
管理するために。
利用するために。
そして世界最大の魔法都市を維持するため、この街には魔力導管が張り巡らされた。
人々は魔法の恩恵を受ける。
だが、本当の魔法を扱える者は、ごく一握りだった。
だからこそ、王立学園には役割が与えられた。
魔法を扱えない者を育て、この都市を支える歯車とすること。
そのため魔法省は、魔導学園だけでなく王立学園の卒業生も積極的に採用していた。
やがて「王立学園は魔法省への近道だ」という評判が広まり、他の官庁も王立学園の学生を求め始める。
結果として、王立学園は魔導学園に劣らぬ難関校となっていった。
そんな王立学園でも、この教授の講義は人気がない。
講義名は「純粋科学」。
魔法を補助する科学ではない。
魔法を一切用いない科学。
それを志す者は、この学園ですらほとんどいなかった。
学生が、静かに口を開く。
「では、科学は魔法を飲み込むことができるの?」
教授は迷いなく答えた。
「魔法は幻想だ。幻想からは何も生まれない。飲み込むのではない。最後に残るのは科学だけだ」
ちょうど講義終了のベルが鳴る。
学生たちは一斉に席を立ち、教授の言葉など気にも留めず講義室を後にした。
ただ一人。
最後列の学生だけが、教授を見つめたまま動かなかった。
教授は資料を抱え、自室へ戻る。
机には魔法によって起きた事件の報告書が積まれていた。
ミラージュ・ペン紛失。
立体魔法の構築。
無観測魔法。
そして、最近発生した指輪型爆弾事件。
教授は静かにページをめくる。
魔法は制御できない。
一部の天才だけが扱う力に、世界を預けることなどできない。
公平とは、誰にでも同じ結果が与えられることだ。
魔法は、それを壊す。
犯罪もまた同じだった。
証拠を消し、法をすり抜け、罪すら観測できなくなる。
魔法による犯罪は制御できない。
しかし科学なら、管理できる。
管理された世界は秩序を生む。
管理された犯罪は、平和さえ生み出せる。
その時、先ほどの学生の問いが脳裏によみがえった。
銀色の髪をした女学生だ。
「科学は、魔法を飲み込むことができるの?」
教授は小さく笑う。
「その通りだ」
科学は、魔法を飲み込む。
そうなれば、魔法は科学の一部となる。




