第十四章 緋色の研究 (一)
朝、挨拶した人が、昼には亡くなっている。
懸命に治療した者が、気づいたら冷たくなっている。
乾いた風が砂を運び、さらに土を乾かしていく。
強い日差しは、肌と土地を焼いていく。
この場所は一番天国に近い場所。
人はここを見て、どう思うだろう。
間違いなく地獄にしか見えない。
土と空からは、死の匂いしかしない。
最初は、その匂いで眠れなかった。
一週間もすると、匂いは服にも体にも染みついていた。
グレート・ゲーム。
第二次アフガン戦争。
この戦争の名前だ。
権力者が始めた戦争。
彼らには、彼らの言い分がある。
資源を。
平和を。
侵攻を止めるために戦わなければならない。
その通りなのだろう。
だが、彼らはその場にいない。
資料や新聞を見ているだけだ。
正しい情報など、伝わっているのかすらわかっていないだろう。
そんな情報に浸っているだけなら、客観的な思考も、優しさや思いやりの心も現れる。
この地では何も意味がない。
ここにあるのは、正義でも悪でもない。
ただ、人を殺すことだけだ。
射撃場の的を撃つように人を狙い、地形を変えるような爆弾を落とす。
砲撃の音がやむ時間などない。
どの時間でも、どの方角からも聞こえてくる。
そのまま全てがなくなってしまえばいいのに。
そうすれば、私の鼻の中から取れなくなっている血の匂いもなくなるだろう。
段々と体に染みついていくその匂い。
自分から発しているのではないかと錯覚してしまう。
増えていくのは、死者と負傷者の数だけだ。
何も変わらない。
ワトソンは、体の疲れよりも、心がすり減っていくのを感じている。
「医療班、早く」
担架に乗せられてきたのは、今朝挨拶をしたばかりの兵士だった。
彼は、実家に両親と年の離れた弟がいると言っていた。
いつもそばから離れない弟を、彼は可愛がっていた。
帰ったら、また釣りに行きたいと話していた。
住んでいる家の近くには川がある。
子供のころから親しんでいるその風景と場所。
その川は、彼の思い出だった。
ワトソンはそれを聞いて、少しだけ心が救われていた。
目の前にある光景以外を考えることなど、最近はなかったからだ。
無事に帰ってきてほしい。
たとえ今日だけだとしても、ワトソンは珍しく祈った。
それは、長らく忘れていた行為だ。
彼の右足はなくなり、意識はほとんどなかった。
「そいつはもう助からない。こっちだ」
別の医師が叫ぶ。
ワトソンは、彼の最後の言葉すら聞けない。
何かを話していた。
両親か、弟の名前かもしれない。
ワトソンの耳には届かなかった。
いったい、いつまで続くのだろうか。
救えない命。
助けるのではない。
ただ痛みを減らすだけ。
死に至る恐怖を、少しでも抑えるだけ。
ワトソンは思う。
私は今、何をしているのだ。
私は医者じゃないのか。
人を救うために、ここに来たはずだ。
涙はもう出ない。
出たのは最初だけだ。
いつからだっただろう。
体なのか、心なのか。
どちらが先だったのだろう。
涙を流すことに意味がないと気づいたようだ。
それから、ワトソンから涙が消えた。
それとは別に、兵士たちとは話すようになった。
会話のほとんどは、故郷や家族の話ばかりだ。
そういえば、店を開きたいと言う者もいた。
パン屋だそうだ。
地域で採れた小麦を使い、ドライフルーツを混ぜたパンなど、色々と試行錯誤しているらしい。
夢を現実にする。
兵士は楽しそうにそう話していた。
いつの間にか、他の兵士たちも話に混ざり、戻ったらみんなで行こうと話した。
そんな話ですら盛り上がった。
一瞬だけ、その場だけの会話だとしても。
パン屋の兵士は、その二日後に死んだ。
爆弾の爆発で、遺体さえまともに残らなかった。
そんなことなど、いつもの風景と同じ。
新しい兵士が来ると、また似たような話が始まる。
古参の兵士は、もうそこにはいられない。
ワトソンは黙って聞いて、相槌を打つ。
それぐらいしか、もうワトソンにはできることがない。
朝、挨拶した兵士と一人でも、次の日の朝にまた挨拶できること。
それが唯一の望みだった。
「まだ、死にたくない」
そう言う兵士の言葉を、何度聞いたのだろう。
立派に戦い、傷ついた兵士。
助けることは、もうできない。
ただ、ゆっくり安らいでほしいと思うだけだ。
ある日、聞かれたことがある。
どうしてこんな前線に、貴女のような方がいるのですか、と。
ワトソンに明確な答えなどなかった。
人の命を救いたいの。
いつもそう答えていた。
自分でも、何を言っているのかわからない。
殺し合いをしている場所で人を救うなど、矛盾している。
助けた命が、他の命を殺しに行くのだ。
兵士たちは言う。
素晴らしいです。
素晴らしくはない。
人など救えてはいないのだ。
同僚の看護師の独り言が聞こえてきた。
助からない怪我なら、戻ってこなければいい。
きっと本心ではない。
医療器具も人手も限られている。
助けられる人を探す。
助けられない者たちは、ただ手を握っているしかない。
その命が尽きるまで。
そして、また他の手を握るのだ。
ワトソン自身も、なぜかこの前線から離れる気はなかった。
早く死にたかったのかもしれない。
それが、きっと私の罰だ。
あの人を止めきれなかった。
もし止めていれば。
そんなワトソンの気持ちとは別に、軍もワトソンを前線から移動させることはしなかった。
藍髪の女医。
背も高く、長い藍髪。
そして周囲と比べても目立つ容貌をしているワトソンは、前線の女神だった。
地獄の戦場で、血まみれになりながら兵士を治療する姿は、兵士たちの心の支えでもあった。
もちろん軍内部からは、軍属とはいえ女性を前線に置くことを、民衆が問題視する声もかなりあった。
しかし、現場からワトソンを引き上げることは、戦争の状況を左右してしまうことになる。
ワトソンがいなくなるほど、戦況が悪いと受け取られてしまうからだ。
ワトソンの存在は別としても、戦況は最悪だった。
現状を維持しているだけ。
誰も正確な情報など手にしていない。
今を保つ。
勝ち負けなど、誰も見ていない。
あと少し。
ほんの少し押されるだけで、すぐに崩壊するくらいまでだとしても。
そして、それは起こった。
一つの爆弾が、誰も予想しないほど遠くに落ちた。
それが、ちょうど医務室だった。
ワトソンたち医者が懸命に治療していた場所に、それは落ちた。
後の報告書には、こう書かれていた。
全員死亡、と。
何かが光り、その後に衝撃がきた。
何故だろう。
メアリー。
元気かな。
私は彼女を幸せにできなかった。
彼女を支えきれなかった。
違う。
彼女が私を支えてくれたのだ。
一人になって、私はやっとわかった気がした。
私は誰も助けることができなかった。
あの人も。
メアリーも。
メアリー。
もしまた会うことがあれば、伝えることができるだろうか。
痛みはなかった。
感覚自体もほとんどない。
これが死なのかしら。
声が聞こえた。
「もう助かりません」
「死ななければいいわ」
「しかし、これは……もう」
私もやっといける。
待っている人など、いないのに。
意識が曖昧になる。
まるで自分の体が溶けるようだ。
そうだ。
このまま。
消えてしまえばいい。
目が覚めた。
息をしている。
体がおかしい。
違和感がある。
動かない。
また、目が閉じる。
「大丈夫そうですね」
「はい」
「これでいいです。あとは任せました」
目が開かない。
いや、薄く開く。
その先に、誰かがいる。
白衣。
そして、赤い服が見える。
赤い服が私を見ている。
私の血で染められたドレスのようだ。
「さあ、貴女はどうなりますか」
女の声だった。
私はまた意識を失った。




