第十三章 四つの署名 (七)
テムズ川。
魔法都市ロンドンを横断している川。
長さは三百四十六キロメートル。
テムズ川は、ロンドンの中央を流れるただの川ではない。
様々な側面がある。
一つは都市境界線である。
川を挟み、また東西で六つの地域を分けるのに使われていた。
その地域は、歴史的にも政治的にも様々な側面を出している。
そしてそれにより、テムズ川は道路と同じくらい交通の要にもなっている。
さらにもう一つの側面。
魔力導管と対をなす、アグラの秘宝のシステムをさらに強化する“霧”を生成する場所である。
その装置は、テムズ川の地下にあると言われている。
アグラの秘宝。
このシステムは現在、魔法都市ロンドンを常に覆っている霧と繋がっている。
魔法は観測により現れる。
そして点、いや観測核は、情報を吸収している。
アグラの秘宝は、観測核のもうひとつの特性である波を利用し、集めた情報を常に収集し続けている。
現在、アグラの秘宝を使用しての活動頻度が高いシステムは通信である。
通信。
それは、声を乗せることである。
魔導通信機で声を観測核に記憶させ、点をアグラの秘宝で作った“霧”に収集する。
そして、受け側の魔導通信機で声を聞くことができる。
そうすることで通信機は、離れている場所で会話ができるようになる。
このシステムは、ロンドンの都市全体を覆っている。
ワトソンは、研究所を飛び出してから犯人を追跡していた。
今現在のワトソンの姿は猫である。
藍色の猫の姿で追いかけている。
人型よりも行動がしやすく、尾行しやすい。
そして何よりも、人型よりも鼻が利く。
この時間だと、夜目が利く利点もある。
しかし、犯人の匂いがわかりづらくなった。
この場所――テムズ川周辺に逃げ込んだ可能性が大きい。
テムズ川周辺は、点の密集率が高い。
点はロンドンの街中にはどこにでもある。
しかし、そこには濃度がある。
濃度が高いところで魔法を行使する場合には、ある問題が生じる。
それは、魔法の誘発である。
魔法を使用する場合、点を観測する。
ただ、観測がぶれると誘発が発生する。
これは、小規模な魔法災害になる。
その災害が大きくなると、魔法省でも管理できなくなる。
最悪の場合、そこは静寂区になる。
このロンドンにも、非公式で静寂区が存在する。
観測できない空間。
シャーロットには、一番適していない場所だ。
そのため、密集区での魔法の使用は禁止されている。
「やっかいね」
ワトソンは一瞬、思う。
密集区では、ワトソンの鼻が利きづらい。
そして、特殊な匂いが流れてきていた。
ある程度の目星がついたので、まずワトソンはシャーロットに連絡した。
「わかったわ。すぐ行く」
シャーロットが来る前に、犯人の潜伏場所の確認を続ける。
匂いが薄くなったので、テムズ川に逃げ込んだ可能性もある。
一応、周辺も再確認しておく。
屋台が何軒か、テムズ川周辺で片づけをしている。
この時間だと、もう営業を終えるのだろう。
夜遅くまで営業している屋台は、歓楽街ぐらいだろう。
今いる屋台に聞き込みをしてみる。
ワトソンは人型に戻り、軽いステップで屋台に近づく。
「どうも」
「あ、今日はもう終わりだよ」
屋台の店主は言う。
屋台で提供しているのは、香りが強いスパイスカレーだった。
ワトソンは、シャーロットと一緒に食べた地方のカレーを思い出す。
鼻が利きづらい理由の一つが、これだった。
「これって、まさかボスコム地方のカレー?」
「ああ、そうだ。食べたことあるのかい」
「ええ。向こうの方に用事があってね」
「本場で食べたのかい」
「店主もボスコムの出身?」
「いや。しかし、もっとこのスパイスカレーを広めたくてな」
「そう。これは広める価値があるわ」
「そうだろ。俺はスミスだ。よろしくな」
「ええ。今度、営業中に来るわ」
ワトソンは、今度シャーロットを連れてこようと画策した。
シャーロットから連絡が来たので、ワトソンは屋台から離れ、シャーロットが来る方へ向かう。
「待たせたわ」
「どう?」
シャーロットが確認してきた。
「ここら辺の可能性が高いけど」
ワトソンは答える。
「点の密集率が高いのね」
シャーロットは少し嫌な顔をする。
点が密集する場所だと、シャーロットの頭が少し重くなる。
「水路を使って逃げたか。もしくは」
「どちらにしても、観測局の許可がないと面倒ね」
ワトソンは後々のことを考える。
お役所は、許可を取らないと面倒になる。
シャーロットが役所の管轄の仕事を無視して行う。
その時は最善のことなのだが、お役所は最善の結果よりも、自分たちの存在意義を大事にする。
そんなことをシャーロットは気にしていない。
しかし事件解決の後、レストレードとステラが後始末や報告書、始末書を提出している。
それは、彼らにとって少し困ることだった。
ここ最近は、よくそれを見るようになった。
ワトソンは、シャーロットの後始末をすることは義務だと思っているので、シャーロットに文句を言いながらも半分楽しく行っている。
しかし彼らにとっては、余計な仕事が増えることにもなり、そして出世や立場の問題にもなるだろう。
そして今回は、監視局ではなく、他の局が関わっているかもしれない。
魔法省観測局。
テムズ川を管轄し、テムズ川から、アグラの秘宝をこのロンドン内で使用するために重要なもの――“霧”を生成させている。
“霧”を生成するこの橋。
通称、タワーブリッジ。
観測局には、大きく二つの部署がある。
一つは本局と呼ばれる、魔法省にある部署。
魔法省の方針の確認、他の局との連携、事務処理などを行っている。
そして、もう一つ。
観測局の本筋はこちらである。
“橋”と呼ばれる部署である。
観測局に入局した場合、どちらに選ばれるかで評価が変わる。
もちろん、“橋”に選ばれる方が評価が高い。
その“橋”の近くに、シャーロットとワトソンはいる。
「どうするの?」
「え、そうね。強行突破かしら」
シャーロットは当然のように言う。
シャーロットは周囲を見回す。
テムズ川周辺は暗くなっているので、タワーブリッジから少し離れたところで、小さな光を見つけた。
「屋台?」
「ええ。スパイスカレーのお店よ」
ワトソンは、先ほどのスミスの話をした。
「誰かを見ているかも?」
屋台の場所は、橋とテムズ川がよく見える位置にある。
暗くても、人影くらいは見ているかもしれないと考えた。
シャーロットたちは、屋台に向かって歩いた。
「こんにちは」
シャーロットは、いつもなら考えられないような口調で愛想良く話す。
ワトソンは、捜査の時に情報を引き出すため、可憐な少女を演じているシャーロットを見ると驚かされる。
普段からそうだと、今の何倍も異性、いや同性からもかなりの好意を持たれるだろうと認識していた。
ただ、シャーロット自体はかなり興味がないのか、そういう話題が出てこない。
シャーロットとの雑談は、事件か、花壇の状態、研究の進捗度合いばかりだ。
これでは、会話が一方的過ぎる。
もう少し大人になったら変わるのだろうか。
ワトソンは、嬉しさ半分、寂しさ半分でたまに思うことがある。
「ああ、もう店じまいだよ」
スミスは片づけをしながら答えた。
「ええ。少し聞きたいことがありまして」
「店主さん。最近ここで、足の悪い、そうね、杖を突いた男性と、特徴的な歩き方をしている人を見かけましたか?」
「監視局の要請で調査しているのですが」
シャーロットは、当然のようにスミスに尋ねる。
「ああ、そういえば、ここ一週間くらい前からそんな奴らを見てるな」
スミスは、シャーロットの方を見て答える。
「その方々は、どちらからどちらへ移動されていましたか?」
「そうだな。ちょうどお前さん方みたく、北から南方面に向かって歩いてたな」
「よく覚えていたわね」
シャーロットの口調が少し変わる。
「ああ。ここは人通りも多いが、そいつらは歩き方が特徴的だしな。そして通っても、どの屋台でも何も買わないからな」
「それに、まあ詳しく見ていないが、タワーブリッジで消えるから、観測局の関係者と思っていたよ」
「なぜそう思ったのですか?」
「だってな。通行人は橋を渡るだろ。観測局の関係者は、橋の下に向かうからな」
観測局の局員入り口は、橋の下にある。
「川を渡っていると思わなかったのですか?」
「ああ、そうだな。もし川を無断で渡るなら警報が鳴る。人だろうが、船だろうが、ゴミだろうがな」
「鳴らないということは、誰も渡っていないか、観測局の許可を持っている」
シャーロットの青い目の視線が強くなる。
「そうだ。お嬢ちゃん、賢いな」
スミスは、にやっと笑ってシャーロットを見た。
シャーロットも笑顔で返す。
ワトソンは、当然という顔をする。
「じゃあ、あなたはいつからここでやっているの? 一週間前から?」
シャーロットの質問に、ワトソンは疑問を持った。
それだと、まるで誰かを監視しているような言い方ではないか。
「あんた、いったい」
店主は少し驚いている。
その瞬間。
「シャル!」
ワトソンは警戒を強める。
それは、殺意を感じたからだった。
「う」
スミスが倒れる。
ワトソンは魔法の障壁を発生させ、シャーロットに覆いかぶさる。
どこから?
今、ワトソンの鼻が利きづらい。
いや、このカレーの匂いで鈍くなっている。
まるで、匂いを消されているようだ。
「シャル。大丈夫?」
「ええ、でも」
スミスは苦しそうにしている。
「大丈夫?」
スミスの首元には、矢の先端が刺さっていた。
シャーロットは白い手袋をはめ、矢を取る。
スミスは軽いうめき声を出す。
シャーロットは、矢の先端の匂いを嗅ぐ。
独特な匂い。
どこかで嗅いだことがある。
矢の加工も確認するが、暗くて見えづらい。
円での観測を考える。
これは、バーソロミューの毒と同じ。
どこから来た?
何かが飛んでくるような音が一瞬鳴った。
銃ではない。
弓?
吹き矢?
シャーロットは、スミスの手を握る。
もう助からない。
バーソロミューの状態から見ても、すぐに毒が回る。
スミスの呼吸が薄くなっていく。
「ゆっくり息を吸って」
シャーロットは優しく言う。
スミスの息が止まった後、シャーロットは、スミスの開いている目を優しく閉じた。
シャーロットは軽く呼吸を整える。
「シャル、追う?」
「いえ。危ないわ。あの毒がまだあるなら、狙われたらまずい」
ワトソンの障壁があるとはいえ、いつまでも使えるわけではない。
そして、この場所は目立ちすぎる。
これ以上、深追いしないほうがいい。
相手は、無関係な人間を殺すことに躊躇がない。
「今は、応援を呼びましょう」
ワトソンとシャーロットは、タワーブリッジにある観測局の窓口に急いだ。
「緊急よ。人が倒れているの。監視局に繋げてください」
「え、わ、わかりました」
観測局の事務員は、監視局に繋げてくれた。
「知り合いがいるの。代わって」
ワトソンは通信機を借りた。
監視局には、ちょうどレストレードがいた。
「もう一人殺されたわ。シャルも襲われた。大至急、応援をよこして」
「ああ、わかった。場所はどこだ」
ワトソンは、タワーブリッジにいると伝えた。
「そこにいろ。動くな」
観測局内の方が安全だと、レストレードは伝えた。
「ええ。そのつもりよ」
「シャーロットは大丈夫なのか?」
「多分、大丈夫よ」
「そうか」
レストレードとの通信を終えた。
ワトソンの隣で、シャーロットは何か言っている。
「バーソロミューの時と同じ毒」
「たぶん、あれは吹き矢。なんて古典的なもの」
あんな状態なのに分析をしている。
一歩間違えば、自分が死んでいたかもしれないのに。
ワトソンの胸の中に、軽い痛みが生じた。
私が。
私が、もっとちゃんと守らないと。
ワトソンの表情が、さらに険しくなった。




