第十三章 四つの署名 (二)
「シャーロット、お客様が来られています」
シャーロットは、日課である花壇の手入れに取りかかっていた。
観測花――彼女の実験対象でもある花々だ。
魔導学園に隣接する寮塔。
その裏庭には、大きく整備された花壇が広がっている。
花壇は三区画に分かれていた。
庭師が季節の花を育てる区画。
学生が授業で手入れを行う区画。
そしてもう一つ――シャーロット専用の実験用区画である。
シャーロットは裏庭の花壇にしゃがみ込んでいた。
指先で観測花の葉を整える。
触れるたび、淡い光がわずかに揺れた。
これは、彼女が努力と交渉の末に手に入れた区画だった。
シャーロットは庭師に劣らぬ頻度で、この花壇の手入れを行っている。
手入れの質もまた例外ではない。
今では他の者が手を出せない領域となり、庭師たちの間では自然と「シャーロットの花壇」と呼ばれていた。
彼女は育てた観測花を回収し、自室の研究室へと運ぶ。
そこでさらに調合を行う。
観測花――それは、通常の植物に魔法的作用を付与したものだ。
調合次第で、薬にも、毒にも、あるいは化粧品にも変化する。
だが、シャーロットには一つ、明確な不満があった。
素材が足りない。
実験も研究も、この規模では限界がある。
しかし、この花壇をこれ以上拡張することはできない。
ゆえに彼女は現在、新たな実験区画を学園内で探していた。
その光景を見つめながら、ハドソンは思う。
――これ、大丈夫かしら?
寮と学園の管理を担う寮長として、庭の管理も彼女の管轄にある。
もっとも、実務の大半は庭師に任せていた。
だが、気づけば一角が完全にシャーロットの領域へと変わっていた。
本人にその意図はないのだろう。
ハドソンも当初は、花壇の一部整備を許可している。
学園でわざわざ花壇の管理を望む学生など、他にいない――そう判断したからだ。
しかし今になって、その判断は誤りだったのではないかと思い始めている。
あの区画は、もはや「花壇」ではない。
何やら、他にも隠し事が寮塔にあると探りを入れている段階である。
寮塔は基本的に、生徒の自主性を重んじている。
貴族の子息、奨学生、そしてシャーロットのような特待生。
立場も背景も異なる者たちを、一律に縛ることはできない。
そのため寮では生徒会を組織させ、内部管理を委ねている。
ハドソンは、その枠から逸脱した者のみを指導する立場だ。
――もっとも。
その「逸脱者」が問題なのだが。
そして今、その代表格が目の前にいる。
花壇を整備している少女――シャーロットである。
シャーロットはハドソンの声に振り向き、土で汚れた服を軽く叩いて挨拶をする。
「はい、ハドソン寮長。どちらにいらっしゃいますか?」
「ええ、応接室におられます」
「わかりました」
観察帳とジョーロなどを片付け、シャーロットは応接室のほうに向かおうとする。
「ま、待ちなさい。シャーロット」
ハドソンはシャーロットを呼び止める。
シャーロットは不思議そうに振り返る。
「まず、服を着替えてきた方がいいわね」
「そうですか?」
シャーロットは花壇の土いじりの時、ワトソンに言われて、汚れてもいい格好をしていた。
シャーロットは、自分の衣服に対する意識が非常に低い。
同世代の人間が流行の服に関心を持つのに対し、シャーロットは、なぜその衣服が流行っているのかという原因に興味を持つ。
そして服とは、体を汚さないものくらいの印象しかない。
「ええ、制服がいいと思うわ」
そういえば、シャーロットの普段着をハドソンは見たことがない。
制服、作業着……?
その選択から出た言葉がそれであった。
「わかりました。少しお待ちいただいてください」
シャーロットは駆け足でその場を離れていった。
ハドソンは、シャーロットが寮塔に戻る姿を見ながら、ワトソンがいないと色々とまずいわね、と考える。
ワトソンはシャーロットのお目付け役であり、この魔導学園の臨時医師でもある。
常に彼女と一緒にいるのだが、最近はシャーロットが巻き込まれた事件で忙しくなったため、その後始末のために別行動することが多くなっていた。
シャーロットが寮塔の自分の部屋に戻ると、ワトソンはまだ帰ってきていなかった。
朝食時に魔法省へ行くと言っていた。
シャーロットは着替え始める。
着ていた作業着を脱ぎ散らかしたあと、制服を探す。
制服は、整理されたクローゼットに掛けてあった。
ワトソンに言われていたことを思い出し、シャーロットは鏡を見て髪も軽くとかし、制服のリボンを整える。
いつもなら、軽くルージュをワトソンに引いてもらうのだが、今日はいいだろう。
そう思う。
シャーロットは部屋を出た。
応接室。
魔導学園の寮塔の一階に、ハドソンの寮長室がある。
その隣に応接室はある。
シャーロットの部屋は寮塔の最上階なので、往復するにもかなりの体力を使う。
シャーロットは、体力にはあまり自信がない。
寮長室の前で、シャーロットは軽く息を整える。
誰かに会う時。
何かを思考する時。
必ず呼吸を整える。
そうすることで脳にしっかりと酸素が入り、頭が整理される。
緊張、動揺、恐怖は、酸素が脳に入らない状態と変わらない。
シャーロットは、自分の脳が様々な情報で埋め尽くされている状態を好んでいる。
頭の中が混乱するくらいが、一番何かを生み出すことができると信じていた。
しかし、今は研究しているのではない。
人の情報を整理し、観察することが重要だ。
空気を一息吐いた。
「失礼します」
シャーロットは部屋のドアを軽く叩いた。
部屋に入る。
応接室のソファーに座っていたのは、濃い緑色のドレスをまとった女性だった。
装飾は控えめだが、仕立ては上等だ。
しかし衣服には、少し歴史を感じる。
女性は、シャーロットが部屋に入った瞬間、立ち上がった。
その時、彼女と視線が合った。
視線の中に強い意志を感じた。
部屋の中では、いつもと違う紅茶の香りがする。
「メアリー・モースタンと申します。シャーロットさんですね。初めまして」
メアリーは挨拶をする。
シャーロットも軽く会釈をして答える。
二人はほぼ同時に腰を掛ける。
すると、シャーロットの視線に気づいたのか、メアリーが答える。
「これは私のお気に入りの紅茶です。持参したものを、ハドソン寮長様に淹れていただきました。冷めないうちにどうぞ」
シャーロットはカップに手をかける。
少し濃い茶色。
立ちのぼる茶葉の香りは、土と陽光を思わせる深みがあった。
しかし、味はとてもやさしく、飲みやすかった。
「おいしいでしょう。ロンドンの紅茶も好きですけど、私はこの紅茶が好きです」
シャーロットは軽くうなずく。
「なぜ、私のところに?」
「はい。今回のことで相談した相手がいました。あなたが適任だと」
シャーロットは、その答えに少し疑問を持つ。
その疑問を聞く前に、メアリーは本題を話し始めた。
「今回ここに来たのは、二つお願いがあるからです」
メアリーは続ける。
「一つは、六年前から送られてくるこの真珠のことです。毎年、私の誕生日に送られてきました」
「真珠ですか?」
「はい」
メアリーは、持参した六つの真珠をテーブルに並べた。
赤、青、黄、緑、白、黒。
六色――魔法理論で定義される色と一致している。
シャーロットは、その一つに視線を落とした。
わずかに揺らぐ波動。
ただの装飾品ではない。
内部に、魔法が封じられている。
魔法の発動には、大きく二つの系統がある。
観測によって点を確定し、直接発動する方法――ネイティブ。
そして、魔法具を介して起動する方法――アクティブ。
後者においては、術式の中核となる“核”が必要になる。
宝玉と呼ばれるものだ。
目の前の真珠は――それに近い。
「触れても?」
シャーロットはメアリーに確認する。
メアリーが軽くうなずいたのを見て、シャーロットは制服のポケットから白い手袋を取り出した。
手早くはめ、右目に小型のルーペを装着する。
真珠を一つ、指先でつまみ上げる。
直径は九ミリほど。
大きさとしては標準的だ。
表面に傷はない。
光の反射も均一。
天然というより、むしろ人工的な整い方をしている。
ガラスのようだ。
――いや。
わずかに、違う。
シャーロットは一瞬、“円”による観測を行うべきか思考した。
だが、すぐにそれを退ける。
不用意に確定させるべきではない。
彼女は静かに真珠を元の位置へ戻した。
「これは、どこかで鑑定を?」
「いえ。ただ、父が昔、母に贈った真珠に似ていて……」
「その真珠は、今どこにありますか?」
「父がインドへ渡る際に家を引き払って、その時から行方が分からなくなっています」
――流用。
シャーロットの思考が、一つの可能性に到達する。
既存の真珠を核に、再構成された魔法具。
だが。
なぜ、真珠なのか。
真珠は生成に長い時間を要するうえ、魔法具としても発動条件が複雑で、通常は採用されない素材だ。
それでもなお、これを選ぶ理由がある。
メアリーは一呼吸置き、話し始める。
「まず、父のことを話さなければなりません」
メアリーは視線をシャーロットに向け、話を続ける。
「私の父は、イギリス軍インド方面の大尉です」
「ちょうど十年前、私もこの魔導学園の生徒でした。父が赴任先のインドから帰ってくると一報を受け、学園から港に向かいました。しかし、父は船に乗っておらず、それから消息不明なのです」
インド――十年前。
記憶の点が結ばれ、線になる。
東インド研究所。
魔法災害。
反乱。
十年前に、世界三大魔法災害事故が起きている。
その一つが、インドで起きた――東インド研究所の事故だ。
この事故には、イギリス軍と魔法省も関わっているという噂がある。
「もしかして、あの事故でということですか?」
「分かりません」
メアリーは答える。
東インド研究所は、二十四人の貴族によって作られた。
魔法省がロンドン内での魔法利用を独占管理していたため、魔法省に与していない貴族は、大議会での勢力を失いつつあった。
それに対抗するために、二十四人の貴族は国外での魔法利用の独占を考え、国外で魔法研究を行う組織を設立した。
莫大な資金と高圧的な取り組み、そして権力を使い、様々な危険な研究を行っていた。
地域は様々な場所だった。
特に大きい研究所は、当時イギリス軍が駐留していたインド地域にあった。
インド洋を中心に活動していたことから、東インド研究所という名称になったと、何かの本に書いてあった。
その結果と功績により、AMAと並び、当時の世界三大魔法機関と呼ばれていた。
しかし、この東インド研究所の存在がなくなる事件が起きる。
その後、東インド研究所は魔法省の一機関として吸収された。
その事故が、セポイ大乱魔法事故と呼ばれている。
「軍は何と言っておられるのですか? 事故のあとで消息不明だと、問題がありそうですが」
シャーロットは尋ねる。
もし、逃亡や亡命だと問題の本質が変わる。
「はい。軍としても捜索をしていただいたのですが、痕跡がないのです。ですので、事故に巻き込まれての消失ということになっています」
シャーロットの質問の意味を、メアリーは理解していた。
「軍では、除隊にも死亡扱いにもしていないのですね」
「はい」
不可解な話だ。
軍は規律を重視する。
それを、そのままにしているわけがない。
「そして、六年くらい前から、私のもとに真珠が届いたのです」
テーブルの真珠を見ながら、メアリーは言う。
「その真珠は、毎年“色”が違います」
メアリーは軽く手を結び、力を込める。
「そして今回は、その真珠と一緒に手紙が来ました」
「手紙」
「東インドの古き友へ。今日の十九時に会いたいと――そう書かれていました」




