宝玉の行方
ジョージ・バーニウェル卿は、予想をはるかに上回る成果に満足していた。
――これは世界を変える第一歩だ。
彼はそう確信していた。
だが、人々が常に変化を求めるわけではない。
急激な革新は、安心を奪い、やがて不安と怒りを生む。
行き場を失った感情は、必ず“自分たちを制御している存在”へと矛先を向ける。
その方向を、誰かが意図的に導けば、暴徒化は容易い。
マリアは、それを理解していた。
このずさんな計画には、“悪役”として憎悪を引き受ける存在が必要なのだ。
そして――その役目を負わされているのが彼であることも。
しかし当の本人は、まだその事実に気づいていない。
理想に駆られ、現実の重さを見ようとしない彼は、ただ宝玉だけを見つめていた。
人々の視線が、すでにその宝玉へ――そして彼自身へ――集まりつつあることを、知らぬままに。
宝玉の盗難による結果は、街の生活を確実に乱し始めていた。
失われた宝玉が魔法都市ロンドンインフラの均衡を崩し、住民たちは不安と苛立ちを募らせている。
そして――その宝玉を“大議会の貴族”が秘匿している、という情報が錯綜し始めていた。
ステラと監視局の局員たちは、急ぎジョージ・バーニウェル卿のもとへ向かっていた。
目的は「保護」などではない。
彼が本当に宝玉を所持しているのなら――
状況証拠だけでも、逮捕に踏み切るべき段階だった。
「なぜだ……なぜ、こんなことになった……」
ジョージ・バーニウェル卿は、目の前の光景を理解できずにいた。
大議会前の広場には、群衆が雪崩のように集まり、怒号と混乱が渦を巻いている。
今は、まだ、警備のものたちによって、大議会には入っては来ていない。
しかし、それは、時間の問題のように思えた。
――計画では、群衆は魔法省へ向かうはずだった。
不満の矛先を魔法省へ集中させ、既存の体制を揺るがし、そこから“新しい世界”への第一歩を示す予定だった。
なのに、なぜ群衆は議会に押し寄せているのか。
なぜ自分のいる場所に向かってくるのか。
その問いに答えられる者は、もはや彼の周囲にはいなかった。
「こちらへ! 卿、避難してください!」
警備局員が駆け寄り、腕を取るようにして促す。
ジョージは反射的にうなずき、足を動かした。
とりあえず避難だ。
ここで倒れるわけにはいかない。
大丈夫だ、まだ――まだ立て直せる。
きっと、これは想定外の誤差にすぎない……はずだ。
だが、その自信は、ゆっくりと崩れ始めていた。
ステラたち監視局は、大議会にたどり着いた。
だが、すでに広場は群衆で埋まりつつあり、議会棟は厚く取り囲まれていた。
混乱の中、ステラは――群衆の流れとは逆に、逃げるように走る“影”を目にした。
直感が告げる。
あれは、ただの避難者ではない。
「待って!」
ステラは影を追って駆けだした。
影が振り返った瞬間、その口が震えた。
「な、なぜ……」
それが、自分の置かれた状況を理解できない男が残した、最期の言葉だった。
「――止まりなさい!」
ステラが叫ぶと、影はその声に反応し、闇の奥へと身を投げるように消えていった。
残されたのは一人の男。
「ジョージ・バーニウェル卿!」
駆け寄ったステラの呼びかけに、彼は応えなかった。
すでに息は途絶えている。
しかし、その手の中で――宝玉が、妖しく光を放っていた。
「これが……宝玉?」
ステラは周囲を警戒しながら声を絞り出した。
「誰が……ここで何を――」
その時だった。
「にゃー! ステラ、逃げるにゃーっ!」
藍色の影が飛び込んできた。ワトソンだ。
「えっ、ワトソンさん!?」
驚く暇もなく、次の瞬間――
轟、と空気が弾け、強烈な衝撃波が二人を襲った。
ワトソンが咄嗟に展開した三角魔法の障壁は、一瞬だけ衝撃を和らげたが、すぐに砕け散った。
ステラの体は地面に叩きつけられる。
「いたた……ワトソンさん、大丈夫?」
「……にゃ……」
かろうじて応える声は弱かった。
ステラは痛む身体を押し上げ、吹き飛ばされた瓦礫から――あたりを警戒した。
何かが、まだ終わっていない。
いや、むしろこれからが本番だ。
「このままだと狙われるにゃ……。しかも、あの衝撃――私の障壁を破る力があるにゃ」
ワトソンは一瞬で思考を巡らせ、周囲の地形と状況を観察した。
「ワトソンさん。私につかまってください」
「え?」
「私、泳ぎには自信あるんです」
ワトソンは、現状を確認した。
逃げ場所は、川しかない。
ワトソンは、ステラの胸元にしがみつく。
「行きます」
ステラは川に、躊躇なく飛び込んだ。
昨日の大雨のせいで流れは想像以上に速かった。
二人は容赦なく押し流され、視界は水飛沫と闇に覆われる。
「わん!」
温かい何かが、二人の身体を下流へと導くように支えていた。
「……ここ、どこかしら?」
ワトソンは身を起こした。
「はい……かなり流されたみたいです」
ロンドン中心部から、かなり流された。
海まで流され、今はどこだろうか。
ステラも髪を絞りながら答えた。
春とはいえ、夜風は冷たく、衣服の芯まで体温を奪っていく。
「って、誰ですか?」
「誰って、私よ、ワトソン」
「え、だって、猫じゃない」
「ああ、私、猫にもなれるのよ」
猫にもなれる?
どういうこと?
今わかることは、藍色の髪の長身の女性とネコのワトソンさんは、同一人物。
そうなの?
何か一気に疲れがきた。
その瞬間にステラは軽く意識をなくす。
「ちょっと、ステラ」
ワトソンは駆け寄る。
ステラを抱き寄せ、周囲を確認する。
「ワン」
モフモフが短く鳴く。
ワトソンは深く息をつく。
ワトソンは、ステラを担いで歩く。
やがて灯りのない小さな民家が目に入った。
どう見ても空き家だが、他に頼る場所はない。
ワトソンは躊躇なく扉を開けた。
魔力暖炉をつける。
衣服がじわりと温まり、ようやく身体の震えが落ち着いていく。
ステラも意識を戻したので、ワトソンは話し始める。
「状況を整理するわ」
ワトソンの声が真剣みを帯びる。
ワトソンは、マリアの屋敷でのことをステラに話した。
「第一に、マリアが何をしたか。
第二に、ジョージ・バーニウェル卿に関与しているか。
そして第三に――宝玉とステラ、両方が明確に狙われていること」
ステラは思わず唾を飲み込んだ。
どれも一つで十分重たい問題だ。
「どちらにしても――」
ワトソンはゆらぐ炎を見つめる。
「シャルかレストレードと合流するか、魔法省へ向かうしかないわね」
「でも……連絡が取れません。魔法通信機も壊れてしまって……」
「ええ。だから慎重に動くわよ」
ワトソンもシャルと連絡が取れない。距離が遠すぎる。
場所的にここは、ロンドンからかなり離れているのではないのだろうか。
空き家の窓越しに見える外の闇では、遠くの騒乱の気配はわからなかった。
日が沈み。
ステラはようやく、浅い眠りへ落ちていく。
いつの間にか、そのまま眠ってしまっていた。
「ステラ、起きたにゃ?」
ワトソンが伸びをしながら振り返る。
「どうやら……ロンドンからは、かなり離れているみたいにゃ。シャルとも連絡がまだ取れないにゃ」
ワトソンとシャーロットは、ロンドン魔力導管の範囲内にいれば通信できる。
だが街を外れると雑音が増え、接続は途絶えやすい。
「とりあえず、追われてる気配はないにゃ。海の流れから見て、ここは海沿いの街の近く。歩けば半日ほどで戻れるはずにゃ」
「わかりました。行きましょう」
ステラがふと思い出したように口を開く。
「ジョージ・バーニウェル卿が倒れていたとき、近くに“警備の服を着た人物”がいました」
「そうなると、“警備員”ではなく、その格好をした暗殺者の線が強いにゃ」
ワトソンが静かに答える。
「彼らの目的は、バーニウェル卿の暗殺だった可能性があるにゃ」
ワトソンは続ける。
「そして、私たちを殺す気なら、あの場で私たちは確実に仕留められていたはずにゃ。でも逃がした……あるいは“逃がしたように見せた”とも考えられるにゃ」
言葉の重みが、春の風を冷たくした。
ステラも息を呑み、黙りこむ。
「今、どのあたりですか?」
「そうね……ロンドン北東の街の近くだと思うにゃ」
「町へ寄りますか?」
「連絡は早く取っておくべきにゃ」
日が沈み、空に暗闇が落ちるころ、ようやく街にたどり着いた。
「やっと着きましたね……」
「まず監視局支部に行きましょう。連絡を取らないと」
支部で状況を説明すると、局員が深刻な顔で頭を下げた。
「お待たせしました。すぐに馬を用意します!」
「にゃ?」
「ロンドンへ向かいます」
「にゃ……」
ワトソンは背筋に嫌な予感が走る。
「大丈夫です! 私、馬の免許、持ってますので!」
「にゃああああ……!」
ワトソンは、初めてステラに“恐怖”を覚えた。
「さあ、飛ばしますよ!」
気づけばもう、ワトソンとモフモフはステラの背にしっかり縛りつけられていた。
「やめるにゃああああ!」
「わふっ……」
モフモフは既に白目をむいていた。
ロンドンに着いたのは夜遅くだった。
ワトソンは、生まれて初めて“疲れ切った馬”というものを見た。
足が震え、今にも座り込みそうだ。
「ステラ! 大丈夫か?」
レストレードが駆け寄る。
「……はい、なんとか……」
ステラは微笑んだが、そのまま糸が切れたように倒れた。
レストレードが慌てて抱きとめる。
「よく頑張ったな。本当に……」
「わん」
モフモフが控えめに吠える。
「おまえも、ありがとう」
レストレードはその頭を優しく撫でた。
その瞬間、モフモフの口から、宝玉が落ちた。
ワトソンはその光景を見つめながら、胸の奥のざわつきを抑えられなかった。
――シャルに、何かあったのではないか。
夜の冷えた空気の中で、その不安だけが強く脈打っていた。
ワトソンは、最後にシャーロットの気配を感知した場所へ向かった。
「魔法省の方にゃ」
ようやく病室の前に立つ。
「……やっと見つけたにゃ」
そっと扉を開けると、そこには静かに眠るシャーロットがいた。
薄い布団の上下に合わせ、規則正しい寝息が部屋に満ちている。
「よかった……にゃ……」
胸の奥に温かさが広がる。
そのとき、小さな声が耳に触れた。
「……おかえり、ワトソン……」
寝言のように弱い声。
夢の中でさえ、自分の帰りを察している――
そう思うだけで、ワトソンの目が潤む。
シャーロットの穏やかな呼吸が、確かに自分を迎えている。
「……ただいま、シャル」
その一言をそっと返すと、
ワトソンはベッド脇で小さく丸くなり、主の寝息に耳を澄ませた。




