表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/32

第一章 学園の醜聞 (四)

 夜の研究棟は、昼とはまるで違う静けさを纏っていた。


 昼間は学生が行き交い、実験器具が鳴り、研究員たちの議論が絶えないこの場所も、夜になれば別世界のようだ。

 廊下に響くのは、自分の靴音と、魔力導管のごく微かな脈動だけ。

 魔力灯は最低限の照度に落とされ、石壁は冷たい影を長く伸ばしていた。


 言語魔法学科の階はすでに封鎖され、重い扉には監視局の赤い印章が押されている。

 しかし、魔法封鎖用の紋章は解除されていた。


 シャーロットは警戒する。


 月光だけを頼りに歩く。


 アドラーの研究室に入ると、かすかにインクと紙の香りが残っていた。紙の山が整然と積み上げられ、規則正しく並べられたインク瓶が、机の上に光を返している。


 机の中央には、透明の羽根――《ミラージュ・ペン》の収納箱が置かれていた。


 しかし、中は空。


 ――なぜ、これがここに?


 昼には監視局が調査に入っていたはずだ。

 このような重要物を回収しないはずがない。

 むしろ、あえて「置かれた」ような気配すらあった。


「ないわね」


 ワトソンの声が低く響いた。

 シャーロットは、周囲の痕跡を観察した。


「“持ち出し”の観測が取れただけ。焦らない」


 シャーロットは、ゆっくりと息を吸い、指先で空をなぞる。


 『観測する』


 その言葉とともに、《円》が展開する。


 柔らかな光が床から広がり、空間の「点」が連鎖的に揺れ始める。


 これは、シャーロットの固有魔法。


 魔法の源である「点」に残された存在の履歴を観測し、再構成する魔法。点・線・角の上位概念として、「時間と因果」をひとつの環に結ぶ。観測者は、それにより過去の像を観ることができる。


 淡い光が床から立ち上がり、空間に円環の残像が浮かぶ。

 光が重なり、やがて像を形づくる。


 そこに、机にペンを置くアドラーの横顔が映った。

 浮かび上がる簡易記録。

 そして、《ミラージュ・ペン》の存在。


 シャーロットの指が止まった。


「にゃ、シャル……いやなにおいがするわ」


 ワトソンが、わずかに肩をすくめた。


「分析は保留。事実だけ記録する」


 シャーロットは淡々と言い、観測を続けようとした。


 そのとき、光が揺れた。

 観測円が乱される。

 部屋の奥から、柔らかな声が響いた。


「なにか、観測できましたか? シャーロット」


 赤銅色の髪、金の瞳。


 アドラーが、月明かりの中に立っていた。

 いつもの白衣ではなく、紺の外套を羽織り、髪が揺れていた。


「なぜ、《ミラージュ・ペン》を?」


 シャーロットの言葉は、抑揚のない冷たさを帯びていた。


「記録は力よ。国家が独占するには――」


 アドラーは、少し寂しげに微笑む。


「国家は秩序を担保するために管理している。それが制度」


「秩序が、いつも人を守るとは限らないわ」


「あなたは、それで何をしたの?」


「私に来たのは研究の依頼じゃない。“奨学生の記録を整えろ”という命令よ。名前を消し、性質を変え、都合のいい『将来』に並べ替えるため。そして、その学生たちは、ある目的に利用されていた」


 アドラーの声は震えていない。

 だが、言葉の端だけが、わずかに擦れていた。


「目的とは、なんですか?」


「奨学生を私的な慰みものにするための選別よ」


「だから、ボヘミア卿を殺したのですか?」


 シャーロットの瞳は冷たく光り、アドラーに刺さる。


「私がボヘミア邸に行った時には、彼はすでに亡くなっていたわ」


「では、なぜすぐに監視局に連絡しなかったのですか?」


「もう、すべて終わっていたのよ」


 アドラーの視線は軽く床を見たあと、宙を見据えた。


「では、誰が殺したのですか?」


 言い淀むアドラーを見て、シャーロットは続ける。


「ボヘミア卿と、どんな関係があったのですか?」


「アルバート」


 アルバート・ゴドフリー・オームスタイン・ボヘミア。

 レストレードからの捜査資料に載っていた人物。

 ボヘミア卿の嫡男。病に伏した父に代わり、実質的に家を動かしていた男。


「私が愛した人」


 アドラーの瞳は、先ほどよりうっすらと輝く。


「でも、あの人は、ある王族と婚礼が決まっていたの。だから、私は身を引いた」


 王族との婚約。

 相手は、レディ・エレノア・グレイス・ウィンザー。


 エレノアは、英国王家の傍流に連なる公爵家の令嬢である。

 王位継承の直系ではないが、王家の血を引くため、社交界では「王室に連なる姫君」と見なされている。

 もしこのような醜聞が公になれば、婚約の破談だけでは済まない。


「蛮行を止めるために、アルバートは私に、ボヘミア卿の記憶の改ざんを頼んだの。《ミラージュ・ペン》を使って。彼は、父親の暴走を自分ではもう止めることができないと考えた」


「それが真実だという証拠は?」


「ないわ」


「アルバート・ゴドフリー・オームスタイン卿の証言は?」


「彼は、きっともうこのことからは口をふさぐわ。これ以上のことは、彼にとっても、彼の家にとっても、不都合な真実しかないから」


 アドラーは、哀しげな笑みを浮かべた。

 その瞳は、誰かを恨むというより、自分を責めている色だった。


「彼にとっては、ボヘミア卿が亡くなった。それがすべてよ」


「ボヘミア卿が亡くなった今、私は彼の中では邪魔な存在なのよ。ボヘミア卿のことを知りすぎていた。だから、一緒に消されるはずだった。そして彼は、《ミラージュ・ペン》を回収するはずだった。でも、私はそこから逃げたの」


「私は許せなかった。彼を――いいえ、私自身を。研究のためとはいえ、さまざまな人の人生を壊してしまった。そして、この魔法具を彼のもとに戻すわけにはいかない」


「それで、あなたが犠牲になるの?」


「ええ。それが、私の罪よ」


 アドラーは、まっすぐにシャーロットの瞳を見つめた。


 シャーロットは一つの推論にたどり着く。

 そこまで考えて、言葉を飲み込んだ。


 アドラーはただ逃げたのではない。

 逃げることでしか、自分の罪を引き受けられないと知っていたのだ。

 あるいは――そう思い込みたかったのかもしれない。


 アドラーは微かに笑い、すぐに目を伏せる。


 その瞬間、シャーロットは干渉波を感知した。

 誰かが、観ている。

 観測者が別に存在する。


 シャーロットは《円》を展開し、すべての干渉を遮断しながら、波形から情報を抽出する。

 円が天井まで広がり、魔法式に触れた。

 干渉した魔法式は軽く光り、そして消えていった。


「見たことない魔法式。――きれいだわ」


 シャーロットのつぶやきは、純粋な興味だった。


 アドラーは、その言葉を聞いて、寂しそうに目を伏せる。


「もう時間ね」


 アドラーは哀しげな笑みを浮かべた。

 その瞳は、誰かを恨むというより、自分を責めている色だった。


 アドラーは、静かに空の収納箱に触れた。


「《ミラージュ・ペン》は?」


「ここに置いたのは、『回収された事実』を作るため」


「中身は、あなたに預けるわ」


「あなたの観測は正確。でも、人の心までは見ることはできないわ」


「観測できないものを、私は信じない」


「――『世界』を観て」


 シャーロットは、上空にある魔法式を一瞬で記憶した。

 これは、連鎖式魔法?

 観たことがない構造。

 何を連動させるためのもの?


「これは、ミラージュ・ペンの記憶の一つ。もし、すべてを観ることができれば、真実がわかるわ」


 アドラーは、透明の《ミラージュ・ペン》をシャーロットに手渡す。

 光の中で、《ミラージュ・ペン》はかすかに震えていた。


「――託すわ。私が選ばなかった道を、あなたが観測して」


「さようなら、シャーロット」


 柔らかな笑みを残し、アドラーは廊下へと消えた。

 その後ろ姿は、決意と失意が混じった静かな影だった。


 シャーロットの瞳に、かすかな熱が宿った。

 それは感情というより、理解への痛み。


「追わなくていいのにゃ」


「ええ。私が依頼されたのは、『所在調査』だけよ」



 翌朝、レストレードが寮塔のシャーロットの部屋を訪れた。

 そして、彼が告げたのは、事件は解決した、という報告だった。


 《ミラージュ・ペン》は、学園の研究室からボヘミア邸へ返却済み。

 理由は、双方の行き違いによる管理上の不備――それだけで処理されたらしい。


 ボヘミア卿は病死。

 アルバートは喪に服しており、王族との婚約は延期。

 アドラー准教授は長期の海外出張。

 そして、《ミラージュ・ペン》によって記録を操作されていた学生たちは、ボヘミア卿が運営する病院で治療を受けているという。


 すべては収まった。

 いびつな形ではあったが。


 レストレードが帰ったあと、部屋にはしばらく重い沈黙が残った。

 机の上に置かれた《ミラージュ・ペン》を見つめながら、ワトソンがぽつりと呟く。


「アイリーンは、いつ知ったのかしら」


「たぶん、ボヘミア卿の遺体を見たときよ」


「そう」


「ええ」


 アドラーは、遺体を見た時に気づいた。

 これは、罠だと。

 すべての責任を取らされると。


 真実を知っている者は、少ない方がいい。

 それが、たとえ昔、愛した者でさえ。


 だから、シャーロットに手紙を託した。

 貴族からシャーロットに依頼の手紙など来ない。

 このような依頼があったら、シャーロットは必ず捜査を始める。

 そうすれば、シャーロットに真実を託し、《ミラージュ・ペン》を預けられる。

 シャーロットが、自分の観測したものしか信じないことを知っているからこそ、まわりくどいことをしてでも。


 真実は、今はこのペンの中にしかなかった。


 シャーロットは窓の外へ視線を向けたまま答えた。

 朝の光は静かで、まるで何事もなかったかのように学園の屋根を照らしていた。


 アルバートは、魔法省と学園に圧力をかけた。

 ボヘミア卿の独断とはいえ、魔法省による魔法具の私的使用、そして学園による生徒の記憶操作。

 こんなことを明るみに出す必要など、どこにもない。

 それは、魔法省と学園の沽券にかかわる事態だ。


 結局、貴族も、魔法省も、学園も、守ろうとしたのは真実ではない。

 醜聞を外へ漏らさないこと。

 その一点だけが、最後まで優先されたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ