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シャーロット 〜魔法の調べは、観測の果てにあり〜  作者: 桜の浜


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第十章 花嫁失踪事件(三)

 貴族塔の一室。


 ハティ・ドーランは、机の上に散らばった紙束を、指先でそっと撫でた。

 厚みの異なる紙。新しい羊皮紙。古い書式の写し。

 触れるたび、インクのざらつきが皮膚に残る。


 明日の婚儀。

 そのための誓約書。

 署名、確認、承認――すべてはすでに整っていた。


 彼女は筆を取り、もう一度、文面の最下段に記された名を見つめる。

 ロバート・セント・サイモン。


「……優しい人」


 言葉は、誰にも届かない。

 静まり返った空気の中で、ひそやかに溶けていく。


「でも……私は……」


 視線が、自然と紙の余白へと落ちる。

 そこには書かれていない。

 けれど、確かに“残っている”名。


「忘れることなんて」


 声は小さく、震えていた。

 それでも、迷いはなかった。

 ハティは立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。

 塔の外では、霧が月光を受け、細かな光の粒となって漂っている。


 その一つが、ふと不自然に揺れた。

 輪郭が生まれ、光が寄り集まり、やがて人の形のようにみえる。


「……フランク?」


 名を呼んだ瞬間、胸の奥が熱を帯びた。

 声は返らない。

 唇は動かず、音も生まれない。

 けれど、確かにそこに“視線”があった。

 見つめ合うだけで、心臓の音が耳の奥で痛いほど響く。

 時間が、わずかに歪んだように感じられた。


「ねえ……私は、あなたを見ている」


 彼女は、ゆっくりと言葉を置く。


「それだけで……あなたは、“在る”のね」


 涙が、頬を伝った。

 光の輪郭が揺れ、かすかに応えるように形を歪める。

 それは、肯定でも否定でもなかった。

 ただ、“在る”という事実だけが、そこに残る。

 やがて、幻は静かに薄れ、霧の中へ溶けていった。

 ハティは深く息を吸い、机へ戻る。


 紙束を整え直すと、その中に一枚、見慣れない羊皮紙が紛れ込んでいることに気づいた。


 古びた質感。

 封蝋に刻まれた紋章。


 ――ストーク・モーラン研究所。


 一か月前、研究所そのものが“消失した”と報告された場所。

 だが、その周囲には、奇妙な噂だけが残されていた。


 実験は失敗したのではない。


 ――成功したから、消えたのだと。


 成功した実験は、死者に、会えると。


 指先が、かすかに震える。

 それでも彼女は、封を切った。

 中に入っていたのは、たった一文。


「死者は消えない。観測する者がいれば、存在する」


 その言葉は、静かに、しかし確実に、胸の奥へと突き刺さった。


 理屈ではない。

 危険性も。

 代償も。


 ――すべて。


 震える指で書面を裏返す。

 下部に、小さな署名。


 “F. M.”


 息が、詰まった。

 この筆跡。

 インクの跳ね。

 線の終わりの癖。


「……フランク」


 彼女は羊皮紙を胸に抱いた。

 涙が落ちるたび、文字が揺らぎ、淡く光を帯びる。

 視線が、再び窓へ向く。


「なら、私が“観る側”になれば……もう一度、あなたに会えるの?」


 答えはない。

 だが、心の奥で、確信が静かに形を成していく。



 ストーク・モーラン研究所。


 ハティは、いつの間にか、その場所に立っていた。

 なぜ来たのか。

 どうして辿り着いたのか。


 ――理由など、もはやどうでもよかった。

 ただ、来ること自体に意味がある。

 そう思えてならなかった。


「こんにちは」


 その声とともに、女がいた。

 この場所には不釣り合いな、赤い――真紅のドレスを纏って。


「……だれ?」


「手紙、ご覧いただけたのですね」


「あなたが、送ったの?」


「会えますよ」


 女は、問いには答えない。


「――死者に、会えます」


「そんなこと、できるわけ……」


「この場所で、何が起きたと思います?」


 女は静かに続ける。


「過去を観測し、死者を――生き返らせたのです」


「……」


 ハティは、言葉を失った。

 そんなことが可能なはずがない。

 理性では、はっきりと理解している。


 だが――

 シャーロットの言葉が、脳裏をよぎる。


 もし、四次元的な魔法が存在するなら。

 過去と未来を“観る”ことすら、不可能ではないのではないか、と。


「あ……会える、のですか?」


 自分でも驚くほど、声は小さかった。


「ええ。できますよ。

 あとは――あなた次第です」


 ハティの心は、大きく揺れていた。

 いや。

 きっともう、答えは出ていた。


 国家。宗教。血縁。制度。感情。

 無数の“視線”が一点に集まる日。


「それを使えば……扉は、開く」


 彼女は、深く息を吸った。


「ロバート……ごめんなさい」


 声は、ほとんど祈りだった。


「あなたを……」


 筆を取り、紙の端に短く書き加える。


 “シャーロットに、観測を”


 インクが乾く前に、ハティは小さく微笑んだ。

 その表情は、悲しみよりも、安堵に近い。


「待っていて……あなたの世界で」


 窓の外の霧が揺れ、再び光の影が立つ。

 彼女はその方向に手を伸ばし、静かに目を閉じた。



 式場の喧噪から切り離された控室は、奇妙なほど静かだった。

 白い花弁が床に散り、鏡台の前には結いかけの髪飾りが残されている。


 シャーロットは扉を閉め、空気の“温度”を確かめるようにゆっくり歩いた。


 鏡台の引き出しに、薄い封筒を見つける。

 中の羊皮紙。


 “死者は消えない。

 観測する者がいれば、存在は再署名される。”


 右下のイニシャル――F. M.


 そのとき、ドアが軽く鳴り、レストレードが姿を見せた。

 簡単な礼のあと、真新しい封筒をシャーロットに渡す。


「監視記録、供述、動線。それから……予備的な身辺調査だ」


「助かるわ」


 封筒の重さが、事態の複雑さを物語っていた。


「上流の案件だ」


 レストレードは簡潔に言う。


「手早く、静かに終わらせたい連中が多い」


 シャーロットは頷き、報告書を開いた。


「フランク・マルベリー……

 消息不明、遺体なし、署名波の消散、死亡認定」


 レストレードが小さく息をついた。


「報告は?」


「誘拐の可能性は低い。本人の自発的離脱」


 沈黙が落ちる。

 扉が閉まり、花の匂いだけが残る。


 ハティが残した言葉。


 “シャーロットに観測を”


「……任されたわ、先輩」


 理は揺れていない。


 揺れているのは――自分だけだ。

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