第十章 花嫁失踪事件(二)
応接室の扉を開けると、黒い礼装の青年が立っていた。
直立した姿勢は訓練された官僚のそれで、わずかな乱れもない。胸元には魔法省の徽章。金色の線が一本走る――省内上級官職の証だ。
「ロバート・セント・サイモンと申します」
彼は深く一礼した。
動作に貴族的な誇張はなく、声にも虚飾はない。硬さよりも、誠実さが前に出ていた。
「シャーロットです。内容は、ハドソン寮長から伺いました」
「ハティから、あなたのことはよく聞いております。研究の話をするとき、とても楽しそうでした」
一瞬、彼の視線が揺れた。
それは悲嘆ではなく、悔恨に近いものだった。
「お時間をいただき、感謝いたします」
「状況を」
シャーロットの短い問いに、ロバートは迷わず答えた。
「昨日の婚儀中、花嫁ハティ・ドーランが消えました。婚儀魔法式は正常稼働、誓約回路も崩壊なし。魔力波形は安定しており、外部干渉の兆候もありません」
彼は一息で続ける。
「しかし、記録魔具には―― “存在断絶”という文字が、一行だけ刻まれていました」
式場の様子を思い出すように、彼は視線を伏せた。
「……その瞬間、空気が凪ました。音も、光も、呼吸さえ止まったように」
シャーロットは黙って聞いていたが、やがて小さく呟いた。
「存在断絶……。つまり、“契約”が消えたのですね」
学園から東へ少し。
テムズ沿いに建つ聖アルバート礼拝堂は、ロンドンでも数少ない古代式誓約魔法陣を保存する建築として知られている。
その中央で、シャーロットは膝をつき、白い大理石の床にそっと手を置いていた。
冷たさが掌を通じて静かに伝わる。
――残留魔力が消えていない。
婚儀から二十四時間。
すでに清めの儀は終わっているはずだ。それでも、点が微細に揺れ続けている。
サイモンからの依頼のあと、シャーロットとワトソンは、聖アルバート礼拝堂での調査を始めていた。
「式場は完全に清められてるのに、点がまだ動いてるにゃ」
藍色の猫――ワトソンが、低い声で言う。
「ええ。誰かの署名が、“今もこの場所に留まっている”」
ワトソンは祭壇の階段を一段上がり、尻尾で空気を探った。
すると、微細な光が線のように反応する。
シャーロットは《円》を展開させた。
次の瞬間、二重の波形が浮かび上がる。
「……重なってる。ロバート・セント・サイモンの婚約印と、ハティ・ドーラン先輩の署名」
だが、それだけではない。
「下層に、もう一つ。――旧式の誓約印ね」
指先で軽く弾くと、光は震え、複雑な文字列を描き出した。
ロンドン式の直線的な構文とは異なる、曲線を多用したアメリカン構文。
その瞬間、胸の奥が微かに疼いた。
――あの頃。
研究室で、ハティが笑いながら言っていた言葉。
“英国式の魔法は、きれいすぎるのよ。人の心が曲がってるぶん、線も少し曲がってた方が落ち着くの”
その意味が、今になって静かに理解できた。
「シャル、こっちにも点の痕跡があるにゃ。祭壇の下、床の縁ぎりぎり」
「……見逃しそうな場所ね」
シャーロットは、《円》を展開し、光を集束させた。
次の瞬間、祭壇下の石面に、薄く描かれた構文が浮かび上がる。
――再誓。
現在の契約を破棄し、過去の誓いを呼び戻す魔法。
危険な魔法式だ。
「この式……ハティ先輩が組んだものね」
「どうしてわかるにゃ?」
「この曲線――ハティ先輩の癖と同じ」
シャーロットは静かに言った。
「これは事故じゃない。ハティ先輩は、自分の意志で誓いを再起動した」
そのとき、礼拝堂を風が抜けた。
ステンドグラス越しの光がわずかに揺らぎ、その中に人影のような輪郭が浮かぶ。
「シャル……いま、誰かいたにゃ?」
「……ええ。でも実体はない。残留観測、あるいは幻像」
光の揺らぎは、まるで誰かがハティと対話しているかのようだった。
穏やかな口の動き。
シャーロットは、かすかな音の波を拾う。
『……。私を』
女性の声ではない。
低く、静かで――男の声。
「観測者の……残響?」
息を詰める。
「シャル、まさか……」
「ええ。彼女は誰かと会っていた。“それが誰か”を調べないといけない」
シャーロットは目を閉じた。
「人は“観測されている”ことで存在を保つ。 誰からも見られなくなった瞬間、世界はその形を保持できなくなる」
杖先の光が静かに脈打つ。
「でも――誰か一人でも、信じて観測していれば、存在は繋がり続ける」
ワトソンが、ゆっくりと理解する。
「つまり……彼女は、完全には消えてないにゃ」
「ええ。彼女は知っていた。“誰かが見ている限り、自分は断たれない”って」
風が祭壇の花弁を揺らす。
「今も、誰かと……?」
「ええ。あの幻像が、彼女の“再誓”の相手かもしれない」
胸の奥で、理論では説明できない“温度”が灯る。
それが何なのか。
まだ、言葉にはならなかった。




