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シャーロット 〜魔法の調べは、観測の果てにあり〜  作者: 桜の浜


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第十章 花嫁失踪事件(一)

 午前の鐘が七度鳴るころ、


 シャーロットは、机上に広げ魔導書を静かに整理していた。

 昨夜の講義で扱われたのは「契約式と存在印」。


 魔法が社会と世界に結びつくための、最小にして不可逆の魔法構造である。

 存在印は、単なる登録情報ではない。

 血縁、契約、婚姻、所属――そうした“関係性”を魔法的に固定し、世界側に

「ここに在る」と通知するための印だ。


 それがある限り、観測は成立する。

 それが失われれば、世界はその存在を観測しない。


 机の隅では、藍色の猫が大きくあくびをしていた。

 ワトソンだ。

 尾の先で魔法通信機を器用に受け止める。


「シャル、伝令にゃ。寮長室――ハドソンからの呼び出し。

 しかも『至急』にゃ」


 シャーロットは筆先を止め、ゆっくりと顔を上げた。

 ハドソン寮長は、学園寮の管理者であり、生徒の生活と秩序を守る存在だ。

 その人物からの「至急」の呼び出しは、規則違反や小さな揉め事の類ではない。


「わかったわ。行きましょう、ワトソン」


 塔を降りる途中、階段の壁面には、古い誓約紋章がいくつも刻まれている。

 点と線だけで構成された魔法回路。

 学園創設期に敷設されたそれらは、今は活動していない。

 魔力導管に置き変わったからだ。


 廊下を抜け、寮長室の前に立つ。

 シャーロットが軽く扉を叩くと、すぐに応答があった。


「入りなさい」


 低く、穏やかな声。

 室内には紅茶と乾いた紙の匂いが満ちていた。

 ハドソン寮長は、眼鏡の奥の瞳を細め、静かにシャーロットを迎える。


「忙しいところを悪いわね、シャーロット。学園理事会の方から、少し

 ……厄介な案件が持ち込まれたの」


「厄介、ですか」


 ハドソンは一瞬、言葉を選ぶように視線を落とした。

 その沈黙が、事態の重さを物語っていた。


「――婚儀の最中に、花嫁が消えたの」


 短い間。

 胸の奥で、わずかな不穏が軋む。

 ハドソンの声音はあくまで淡々としていた。


「正式な報告書には、”存在断絶”という記録だけが残っているわ」


「存在断絶……?」


 シャーロットは眉を寄せる。

 消失でも、転移でも、隠蔽でもない。

 それは、観測の前提が断ち切られたことを意味する言葉だった。


「対象の肉体は確認されていない。けれど死亡判定も成立しない。

 ――世界が、彼女を“存在として扱うのをやめた”状態ね」


「……それは」


「ええ。本来なら、理論上は起こりえない」


 ハドソンは静かに続けた。


「名前は、ハティ・ドーラン嬢。あなたも、よく知っているでしょう」


 その名を聞いた瞬間、シャーロットの指先がわずかに止まった。


 彼女は、婚約を心から喜んでいた。

 研究の合間に、少し照れたように微笑んで――

「式には必ず来て」と言った声が、はっきりと思い出される。


「アメリカ旧貴族ドーラン家の令嬢。学園上級科に在籍し、今期からは研究生扱い。

 研究分野は異文化魔法論だったわね」


 記憶が鮮やかによみがえる。

 上級演習室で、ハティが発表していた観測異文化論。

 観測量の違いによって魔法文化が分岐するという仮説。


 明るく、柔らかな性格だった。しかし研究室でたまに寂しい顔をするときがあった。何かを思い出しているような瞳をしていた。


 夜の研究棟で、二人きりになったこともある。

 彼女は笑いながら、こんなことを言っていた。


 ――観測することは、理解すること。


 でも、理解は必ず誰かを変えるわ。


「普段から交流があったのね?」


 ハドソンが確認するように言う。


「はい。補助実験で手伝いや資料整理を……」


「そう。なら、話は早いわ」


 ハドソンは眼鏡を押し上げ、短く息をついた。


「婚儀の相手は、ロバート・セント・サイモン卿。魔法省の上級官僚よ」


 さらに一拍置いて、続ける。


「学園理事のご子息でもある。学園への多額の寄付者でもね。この件が公になれば……少々、面倒なことになるでしょう」


 政治。体面。沈黙。

 それらが、真実よりも優先される場面を、シャーロットは何度も見てきた。


「それでね」


 ハドソンは机の引き出しを開け、一枚の紙包みを取り出した。


「置き手紙があったの。花嫁衣裳と一緒に」


「置き手紙……?」


「ええ。短いわ。でも――あなたの名前があった」


 包みを開く。

 上質な紙。急いで走らせた線。

 そこに残る、かすかな魔力の癖。


「“シャーロットに、観測を”そう書かれていました」


「……わたしに」


「ええ。直筆よ。確かに彼女の筆跡です」


 シャーロットは短く息を吸った。

 助けて、ではない。

 逃げたい、でもない。

 彼女は――“観測”を求めている。


 ハドソンの声が、静かに重なる。


「ロバート・セント・サイモン卿は、隣の応接室に通しています」


 シャーロットはゆっくりと頷いた。


「わかりました」


 部屋を出る直前、ワトソンが小さく呟く。


「観測は、真実を壊すこともあるにゃ」


「ええ」


「それでも、行くにゃ?」


 シャーロットは扉に手をかけたまま、ほんの一瞬だけ立ち止まり、そして答えた。


「――だからこそ、観測するのよ」


 扉の向こうでは、貴族の独身者が待っていた。

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