第九章 技師の親指(三)
「状況はどうですか?」
アリスが、その声の主に静かに答える。
「六つの宝玉を並列に設置して、安定はした。なら――もっと発展させるには、別の媒体が必要ね」
間を置いて、研究室に入ってきた女が言った。
「理屈は分かります。けれど……現実的には難しいですね」
その声に、ヘザリーは思わず視線を向けた。
そこにいたのは、真紅の服をまとった女だった。
研究所の無機質な空気とは、あまりにも不釣り合いな赤いドレス。
その瞬間、ヘザリーは感じた。
――危険だ。
それでも、目を離すことができなかった。
目を離した瞬間に何かが終わる気がした。
「――もう、博士も限界みたいだし、早めに片づけたほうがいいわ」
アリスが装置を見上げながら言った。
「もう、アリスさんは急ぎすぎです。これにどれだけ予算がかかっていると思っているんですか。本当に」
「まあ、ある程度の実験結果も出ましたし。そろそろ撤収しましょうか。
面倒な人がうろうろし始めてますし」
あまりにもあっさりとした決断に、ヘザリーは驚いた。
「さて、どうしましょうか?」
赤いドレスの女が、ヘザリーに近づく。
「黙っていられますか? あなたは?」
短い言葉だった。
だからこそ、余計な希望が削ぎ落とされていた。
冷たい汗が背を伝った、その瞬間――背後に、スタークが立っていた。
気配がない。
音もない。
ただ、影が増えたことで、そこに“いる”と分かる。
「どうした?」
「……いや。大丈夫だ」
ヘザリーは唇を動かそうとして、声が出ない。
喉の奥が凍りついたようだった。
装置を見つめる赤いドレス女の赤い瞳を見た瞬間、ヘザリーは確信した。
――こいつは、違う。
俺と、見ている“景色”が。
このままにしては置けない。
すでに今ある装置だけでも危険水域に入っている。
この装置が暴走したら、この研究所が無くなるだけではすまない。
もっと大きな被害がでる。
最悪、このロンドンの街が大きく傾いてしまうくらい。
ヘザリーは突然に現実が襲ってきた。
今まで彼の頭を温めていた熱は、一気に冷めていた。
それは、正義感ではなかった。
ただ、技師としての正しさだった。
本来、一番大切なものであったのに、へゼリーの思考は何かに飲み込まれていた。
伝えなければならない。
誰に、いや、誰でもいい。
「これ以上は、危険だ。制御できるわけがない」
へゼリーは、技術者としての見解を述べた。
「そう、おもいます?」
赤い服の女がヘザリーを見て、そしてアリスに視線を移す。
「そうね、このままだと無理ね。もっと安定するものが必要ね」
アリスは、装置を観ながら答えた。
「だ、そうですよ。ヘザリーさん。どうされます?」
「俺は――」
へザリーの答えは、すでに決まっていた。
「なら、口を閉ざしてもらうしかないな」
スタークは、まるで当然のことのように言った。
閃光が走った。
音は、遅れてやってきた。
次に、熱。
その後で、痛みが脳を貫き、視界が白く弾けた。
右手の親指が――切られた。
理解が追いつくより先に、身体が拒絶の痙攣を起こす。
握っていた工具が床へ落ちる。
そして、白い灯の下で、へゼリーの床が赤くなる。
ヘザリーは、赤い広がりがさらに大きくなるのを見る。
「――走って!」
女の声が聞こえた。
叫びは短い。
だが、その声だけが、この研究所の沈黙を破った。
光が爆ぜる。
空間がねじれ、床と壁の境界が裏返る。
遠近感が壊れ、出口が遠ざかるのか、近づくのか分からない。
ヘザリーは無我夢中で駆け出した。
走っているのに、足が床を掴めない。
毎日いたのに、今どこにいるのすらわからなかった。
背後で、スタークの声が何かを言った気がした。
ヘザリーは、ただ走った。
どこまで走ったのだろう、そう思った瞬間、意識がなくなった。
次に目を開けたとき。
ヘザリーは、ロンドン郊外の駅前に倒れていた。
右手は血に濡れ、痛みがへゼリーに現実に戻ったことを教えていた。




