第九章 技師の親指(一)
魔法省が管轄する病院の廊下は、夜の静けさに深く沈んでいた。
昼間は医師や看護師が行き交うこの場所も、今は人影もなく、足音ひとつが不自然なほど大きく響く。
廊下を進む足音が一つ、規則正しく響く。
シャーロットは、ロンドン魔導学園に籍を置く学生であり、同時に監視局から黙認された観測者でもある。
レストレードは言う。
「二週間前に発見された。学園技師、ビクター・ヘザリー。右手の親指を失い、長く昏睡していたが、先日ようやく意識が戻った」
病室の前で足を止め、レストレードは報告書を閉じた。
その仕草には、微かな苛立ちがにじんでいた。
シャーロットは軽くうなずくと、扉に手をかけた。
白い灯に満ちた病室は、必要以上に清潔だった。
ベッドの上で横たわる青年の右手には、厚い包帯が巻かれ、その下の「空白」だけが、無言で事故の重さを語っていた。
右手は静かに布の下に沈み、もはや二度と、工具を握ることはないのだと無言で語っている。
「……事故なの?」
シャーロットはそう言い、ベッド脇に歩み寄った。
背後で、レストレードが低く答える。
「現場は“事故”として処理された。だが、切断面があまりにも――正確すぎる」
シャーロットは淡く笑った。
それは愉悦ではなく、確信に近い表情だった。
「シャル、彼、目を覚ましたわ」
藍の長髪が肩を流れ、落ち着いた動作で眼鏡を整える。
「脈拍は安定」
ワトソンは小さく頷いた。
シャーロットは青年の顔を見つめる。
「では、聞かせてもらいましょう」
静かな声で、彼女は言った。
「あなたが見たものを」
一か月前のことだった。
ビクター・ヘザリーは、ロンドン魔導学園の工房にこもりきりで、魔法式水圧機構の修復に没頭していた。
巨大な導管に流れる魔法と水圧を同時に制御するこの装置は、学園と研究棟を支える要の一つであり、わずかな誤差があれば全系統に歪みを生む。
ヘザリーは、そうした「わずかな誤差」を許さない技師だった。
工具を握る手は常に正確で、特に右手の親指は、圧の感触と角度を測るための感覚器官でもあった。
彼は一度作業に入ると時間を忘れ、呼び止められても振り返らない。
教授たちの間では、腕は確かだが「情熱が過ぎる」と評されていた。
その夜も、工房には彼一人しかいなかった。
魔力灯の白い光の下、歯車と符式が静かに噛み合う音だけが響いている。
そのときだった。
――コン、コン、コン。
工房の扉が、三度、正確な間隔で叩かれた。
ヘザリーは手を止めなかった。
夜間の工房に訪ねてくる者などいない。そう思っていたからだ。
二度目の音が響いたとき、彼はわずかに眉をひそめた。
音が、妙に澄みすぎている。
三度目。
工具を置く音と、扉を叩く音が、不自然に重なった。
「……誰だ?」
返事の代わりに、冷たい風が工房へと流れ込んだ。
扉が音もなく開き、赤い外套をまとった男が立っていた。
年齢は判別しがたい。
整った顔立ちに、血の気を失ったような白さ。
何より、その外套の赤は、工房の白い光の中でも沈まず、異様な存在感を放っていた。
「ビクター・ヘザリーだな」
男は静かに尋ねた。
「あんたは?」
「ライサンダー・スタークだ」
「君の技術に用がある」
「学園経由の依頼なら、正式な書類を――」
ヘザリーがそう言いかけたところで、男は小さく首を振った。
「学園を通す必要はない。これは魔法省からの極秘の依頼だ」
淡々とした声だった。
「報酬は――。前金で支払う。ただし条件がある」
男の視線が、ヘザリーの右手に一瞬だけ落ちる。
「誰にも口外しないこと」
魔法省からの極秘依頼、そして、高額な報酬。
その額を聞いた瞬間、ヘザリーの胸が大きく脈打った。
技師としては破格の報酬だ。
だが同時に、男の眼差しには、温度というものが感じられなかった。
「……依頼の対象は?」
慎重に、ヘザリーは尋ねた。
「核観測装置だ」
その一言で、彼の理性は大きく揺らいだ。
核観測装置。
学園でも、限られた研究者しか触れない装置。
魔法を“使う”ためのものではなく、魔法が成立する瞬間そのものを観測するための機構。
危険であることは、嫌というほど理解している。
同時に――技師としての好奇心が、刺激された。
「……わかった」
そう答えた瞬間、工房の空気がわずかに歪んだ。
何かが決定的に狂い始めたのだと、彼は後になって理解することになる。




