第八章 まだらの紐(四)
ストーク・モーラン研究所を覆う霧は、数日前よりも濃く、重かった。
シャーロットは、背後から忍び寄る気配に目を向けた。
「……気づいていたのですか?」
霧の中から現れたのは、ヘレナ・ストーナーだった。
赤い外套を締め、以前よりも落ち着いた表情をしている。
「ええ」
シャーロットは淡々と答える。
「ジュリアが亡くなった時点で、あなたが消えなかった」
ヘレナの肩が、かすかに揺れた。
「どうして、二人を殺したのですか?」
重い問いかけだった。
ヘレナはしばらく口を開かず、霧の奥を見つめていた。
やがて、静かに語り始める。
「……父は、もう壊れていたのです」
「壊れて?」
「ええ。病も進み、精神も限界でした」
ヘレナの声は震えているが、逃げてはいない。
「ここ最近の父は、ずっと悩んでいました。――十年前に亡くした“本当の娘”が、天国にいるのか、あるいは地上の“私たち”なのか」
ヘレナは空を見上げる。
霧の向こうに、何かを探すように。
「もし“二人”存在しているなら、父が死んだあと、会えるのか。そもそも同じ魂なのか」
言葉が詰まり、息を吸う。
「矛盾に気づいた瞬間……父は耐えられなくなったのです」
シャーロットは黙って耳を傾けた。
魔力導管の微光が、霧の中で静かに瞬く。
「姉――ジュリアは、その話を聞いてしまった。自分が“本物ではない”と、父に言われているのだと」
ヘレナの声が、わずかに掠れる。
「その瞬間から、彼女の存在が揺らぎ始めたのです」
「存在が……崩れた」
シャーロットが小さく言う。
「ええ。父は、姉を殺すつもりだった。存在が壊れきる前に、“整理”しよう。
そうすれば、また天国できっと会えると」
ヘレナは目を閉じ、吐息を落とした。
「だから、私が止めました。父にも、姉にも、これ以上苦しませたくなかった」
その言葉のあと、彼女は唇の内側を噛んだ。痛みでしか、崩れそうなものを支えられないように。
「……薬を?」
シャーロットは問う。
「はい。薬は本来、治すためのもの。でも、大量に飲めば――毒にもなる」
沈黙が落ちる。
霧の中で、旧魔力導管塔が軋むような音を立てた。
「あなたは……平気なの?」
シャーロットが問いかける。
「はい」
ヘレナは迷いなく頷いた。
「私は“ヘレナ”だから。本物の娘の“情報”は身体だけ。私の心は、私自身のものです」
その声には、苦悩も迷いもなかった。
「あなたは、自分自身を観測しているのね」
シャーロットは静かに言う。
「ええ。“他者の観測”より、“自分の認識”を優先する」
ヘレナは微笑み、続けた。
「……あなたも、そうでしょう?」
シャーロットは答えなかった。
ただ、灰青の瞳が、わずかに揺れた。
「――どこへ行くの?」
霧の奥へ歩き出すヘレナに、シャーロットは問いかける。
ヘレナは振り返り、
初めて、年相応の少女のように微笑んだ。
「私は、今やっと自由になった気がするのです。 “誰かの複製”でも、“娘”でもなく……ただの、私として」
風が吹き、霧が裂けた。
その隙間に、ヘレナの姿はすっと溶けて消える。
――観測の範囲外へ。
シャーロットは、しばらくその場所をただ見つめていた。




