第六章 唇のねじれた男(四)
朝霧のなか、ロンドン塔の鐘が鳴り響いた。
ベンチの端に、ネヴィル・セントクレアが座っていた。
顔はすでに清められ、すすの跡は消えている。
髪も整えられ、衣服も新しい。
シャーロットは静かに歩み寄り、彼の隣に腰を下ろす。
しばらく、言葉は交わされなかった。
鐘が、もう一度鳴る。
その音が消えたところで、シャーロットは低い声で尋ねた。
「――なぜ、あの場所に?」
問いは短く、だが重かった。
セントクレアはすぐには答えなかった。
「……ずっと、魔法省で世界を見てきた」
ようやく、セントクレアは口を開いた。
「秩序も、制度も、魔法によって支えられている。……すべてが“正しい形”をしていた」
彼は、ゆっくりと拳を握る。
その動きは、怒りが感じられた。
「私は、それを公平な世界だと信じていた。魔法がある限り、人は救われると」
一拍。
拳が、わずかに震える。
「だが……静寂区を視察したとき、思ってしまったんだ。この世界は、本当に“正しく観測されているのか”と」
シャーロットは何も言わず、続きを待った。
「魔法省には、未処理箱という棚がある」
彼は苦く笑う。
「緊急性がなく、数字に表れず、“今すぐ問題にならない”案件を放り込む場所だ」
そこに、静寂区関連の報告書が積まれていた。
「誰も悪意を持っていない。ただ、慣れているだけだ。観測されない場所は、存在しないのと同じになる」
彼はひとつ息を吸った。
「だから私は、魔法省の不正と格差の実態を、別の組織に“漏らし始めた”」
シャーロットの目が、わずかに見開かれる。
それを見て取ったように、セントクレアは肩をすくめた。
「そうだ。私はスパイだった。だが……魔法省は途中から気づいていたようだ」
――魔法省は、彼を泳がせていた。
それは、レストレードからすでに聞かされた事実だ。
意味のない情報を意図的に掴ませ、外部組織の反応を見る。
やがて、二重スパイとして正式に取り込む予定だった。
「だから、彼らは“わかりやすい案件”を私の目の前に置いた」
声が、かすかに震えた。
「私は……それに飛びついた。正義だと、思ってしまった」
沈黙。
「だが、その情報漏洩で……」
彼は一瞬、言葉を切った。
「……罪のない子供が死んだ」
名前にも触れない。
「私の判断で、私の“正しさ”で」
頭が垂れる。
そこにあるのは怒りではなく、長く制度の内部にいた者だけが抱く、取り返しのつかない疲労だった。
「私のせいなんだ」
シャーロットは、すぐには答えなかった。
代わりに、問いを重ねる。
「……アドラー准教授とは、どんな話を?」
セントクレアは目を伏せる。
「アドラーは……気づいていた」
「魔法社会が抱える矛盾にも、私たちが目をそらしてきた現実にも」
「彼女は“観測を組み替える”道を探していた。一緒にと、でも私は……観測から、逃げようとした」
肩が震える。
「……私は、その期待に応えられなかった」
それ以上、彼は語らなかった。
ただ、光の射す窓辺を静かに見つめていた。
シャーロットもまた、言葉を失っていた。
――なぜなら、彼女自身も、同じ問いを抱えていたからだ。
魔法とは、人を救うものなのか。
それとも、形を変えた“支配の信仰”なのか。
科学は、かつて平等を夢見た。
だが法則は人を救えず、平等は秩序を壊した。
そして魔法が現れた。
人が魔法を観測し、互いの存在を確かめ合うように。
それでも、この問いだけは消えない。
――魔法とは、本当に必要なのか。
シャーロットはそっと息を吐いた。
静寂区――魔法省でのその場所を表す秘密のコード221-B。
レストレードの報告書にはそう書かれていた。




