第六章 唇のねじれた男(三)
――ロンドンの西端。
魔法が“途切れる”唯一の場所。
シャーロットは蒼い外套を手に取り、深く息を吸った。
そして、静かに歩き出した。
静寂区。
そこは、全てを観測されたくない人々が集まる街だった。
都市魔力導管網を形成する無数の“線”は、この一帯だけを避けるように途切れている。
魔力の流れは届かず、魔法省が誇る広域観測も、この場所では沈黙したままだ。
公式地図には、最初から存在しないかのように塗り潰され、記録も、統計も、報告書も残らない。
だが、ここは無ではない。
住むのは、自らを世界から“隠した”人間たちだ。
犯罪者。身分を失った者。あるいは――魔法を使えなくなった者。
生活は破滅的に不便で、灯火は自分で起こし、水は井戸から汲む。
それでも彼らは、この地を選ぶ。観測されないことは、不自由と引き換えの自由だった。政府もまた黙認している。修復には莫大な予算がかかり、完全封鎖も維持できない。結果として静寂区は、観測されない者たちの避難地であり、同時に犯罪の温床でもあった。
しかし、すべてが荒廃しているわけではない。
壁には手書きの記号が残り、壊れた街灯には科学式ランプの補修跡がある。
手押しポンプのそばには、幼い靴跡が残っていた。
レストレードの業務が終わるまでのわずかな時間、シャーロットは、部屋に籠もっていた。机の上には、アドラー准教授が遺した論文の束がある。
アドラーとセントレアの関係があるかもしれない。
そして、あの数字。
なにかしらのつながりを探すために。
彼女の指が止まったのは、魔法具に関する一節だった。
観測を遮断する装置。
魔力そのものを消すのではない。
ただ、世界から“観測されない状態”を作り出すもの。
それは、魔法が存在しない世界を、疑似的に成立させることができる。
《ヴォイド・ペンダント》。
本来であれば、この種の魔法具は魔具保管局で厳重に管理されている。
ネヴィル・セントクレア。
彼は、魔具保管局の官僚であり、正式な権限をもって、保管庫への出入りが許されている人物だった。
偶然とは、言い切れない。
シャーロットは照合を終え、論文を静かに閉じた。
点は、確実に増えている。
あとは――それらが、どのような線を結ぶのか。
その夜、シャーロットとワトソンは濃霧のなかを歩いていた。
先頭にはレストレードが立ち、黒い外套の背中が霧に溶け込んでいる。
街の“点”はすでに沈黙している。
シャーロットの手にある魔導灯は、数秒ごとにちらついては消える。
――反応が、返ってこない。
魔法使うものとして最も不気味な感覚だった。
意識を繋げても、世界が受け取らない。
足音は霧に吸われ、反響もしない。
「シャル……本当にここに人がいるのかしら?」
ワトソンの声も、どこか鈍く聞こえた。
「いるわ」
シャーロットは歩みを止め、答えた。
「――人はどこにでも生きていく居場所を作るのよ」
彼女は石畳の上で立ち止まり、折りたたんだ地図を開く。
そこには、白紙のような空白がぽっかりと口を開けていた。
“観測されない領域”として、意図的に削除された場所。
そして、観測拒絶の魔導具。
彼女は石畳に膝をつき、指先でそっと“点”を置いた。
淡い魔力光が弾ける――が、すぐに霧に溶ける。
「……弱い」
線を引く。
だが、線は歪み、三角は定まらない。
三角は一辺が欠け、構造が崩れる。
「シャル、無理にゃ。ここは点がないにゃ」
「だからこそ……《円》で“観測”するのよ」
シャーロットは深く息を吸った。
《円》は、戻らない。
彼女は点を打ち、線を結び、最後に、すべてを包み込むように、大きな弧を描いた。
――《円》。
「観測する」
《円》が完成した瞬間、
シャーロットの視界が少し暗くなる。
「大丈夫か?」
「ええ、」
いくら《円》とはいえ、静寂区のすべてを見ることができない。
だからこそ、細かく場所の確認しなければならない。
その分、シャーロットの負担は多くなる。
特に点が観測しにくい、この場所では。
この場所には、魔法の源である点がほぼない。
円の大きさが広がらない。そのために回数を増やす。
何十回、行っただろうか、シャーロットの姿を見て、ワトソンがもう止めに入ろうとしたその時、
「……見えた」
シャーロットの瞳が揺れる。
「《ヴォイド・ペンダント》を使った存在は、“観測の穴”として浮かぶわ。あの家屋の影……そこが欠けている。」
その直後、崩れかけた家屋の窓に、魔法ではない炎の灯りが、かすかに揺れた。
室内に映る――人影。
シャーロットは息をひそめ、静かに扉を押す。
すすにまみれた男が、そこにいた。
顔は汚れ、唇は乾き、歪んだようにねじれている。
笑っていないのに、口角だけが壊れたように歪んで見えた。
だが、その目だけが、かろうじて理性の光を宿していた。
「あなたは……誰?」
男は、喉を鳴らすようにして答えた。
「俺は、ヒュー・ブーンだ」
「……ヒュー、ね」
シャーロットは一歩近づき、男を観察する。
その瞬間、
「おい、その男は違うようだ」
レストレードが低く制した。
「いいえ。――よく見て」
シャーロットの視線が、男の胸元に落ちる。
首に下げられた、黒い石のペンダント。
光を吸い込み、輪郭すら曖昧にする異様な装置。
「……《ヴォイド・ペンダント》」
それは魔法を打ち消すものではない。
存在そのものを、世界の観測から拒絶する道具。
レストレードが、拘束符を構えた。
「近づくな。俺は――」
「待って」
シャーロットは手を上げ、制し、再び膝をつく。
――《円》。
静かに、詠唱。
「観測」
存在を“中心”へ引き戻す。
《円》が輝いた瞬間、空気が震えた。
《ヴォイド・ペンダント》の闇が軋み、
閉ざされていた光が、内部から漏れ出す。
黒石はから光が無くなった。
そして――
「……終わった」
すすが、風に払われるように落ちていく。
現れたその顔は――
ネヴィル・セントクレアだった。




