第一章 学園の醜聞 (二)
シャーロットは、ワトソンに急かされながら制服に着替えている最中、ハドソン学園寮長から緊急の呼び出しを受けた。
シャーロットは足早に寮長室へ向かう。
寮長室は、寮棟と講義棟の間にある。
寮棟と学園の管理、来客対応など、仕事は多岐にわたる。
それを一手に担っているのが、ハドソン寮長である。
呼び出しは突然だったが、シャーロットにとっては調査を進めるうえで好都合だった。
――寮長室に呼ばれる。
シャーロットは、これに対して二つの可能性を考える。
一つは、先日、実験棟で爆破未遂事件を起こしたこと。証拠は残さないよう、きれいに片づけたつもりだったが、どこからか情報が漏れたのかもしれない。
そしてもう一つは、先ほど見たレストレードの依頼の件。
もしそうなら、学園側がすでに何かしらの情報をつかんだ可能性がある。
情報は、早ければ早いほどよい。
寮長室の扉を叩き、入室すると、柔らかな香りが迎えた。
紅茶と蝋燭、そして、ほんのわずかな薔薇の香油。
部屋は落ち着いた暖色の光に照らされ、書棚には学園の公式文書や古い寄付記録が並んでいる。
窓辺に吊るされた魔法灯が、窓幕に淡い揺らぎを投げていた。
学園寮長、ハドソン。
栗色の髪をきれいに結い上げた姿は、いつもと変わらず整っている。
その微笑は優しいが、観察眼に満ちた人間特有の静かな緊張が、そこにはあった。
「来てくれてありがとう、シャーロット。座ってちょうだい」
シャーロットは深く一礼し、椅子に腰を下ろした。
ハドソンは、静かにカップを傾けた。
紅茶が注がれる音が、緊張した空気をやわらかく切り分ける。
薄い琥珀色の液体がカップへ満ち、灯に透けて美しい反射を作る。
やがて、寮長は封筒から小さな写しを取り出した。
「では、私から一つ確認があります。――ボヘミア卿のご子息から連絡がありました」
机上に置かれた写しには、透明な羽根を模したペンの図が描かれていた。
「記録魔法具。
……それを、言語魔法学科のアイリーン・アドラー准教授が、ボヘミア邸より持ち去りました。
そして、彼女は今、連絡が取れません」
その名を聞いた瞬間、シャーロットの目がわずかに見開かれた。
視線が鋭く結ばれ、脳裏にいくつもの出来事が一度に立ち上がる。
シャーロットは、一昨日も一緒に研究室にいたことを思い出す。
アイリーン・アドラー准教授。
学園で数少ない「言語魔法の専門家」であり、シャーロットが尊敬し、ときに助手として協力する研究者。
論理的だが情熱もあり、魔法言語の微細な変化に心から興味を示す人物。
シャーロットは、思わず前のめりになった。
「どういうことですか?」
「ええ、あなたとアドラー准教授は仲が良かったわね」
ハドソンの声音は柔らかい。
だが、その奥にあるのは、「情報提供者としての期待と警戒」だ。
寮長という立場上、個人の感情よりも学園の安定が優先される。
探るような静けさが、その言葉の響きに混じっていた。
「私を呼んだのは、そのためですか?」
「そうね。でも、アドラー准教授と関わりのある人には、全員話を聞いています」
その公平さは、シャーロットも理解している。
だからこそ、まっすぐに寮長を見つめ返した。
その無言の視線は、「わかっています」という同意そのものだ。
「ボヘミア卿とアドラー准教授は、どんな関係ですか?」
「出資者です。アドラー准教授の研究に資金を提供していました」
なるほど、とシャーロットは紅茶に視線を落とした。
香りが鼻先をくすぐり、思考の速度が自然と落ち着く。
「彼は、学内の複数の研究に出資しています。この学園でも、多くの奨学金を出しています」
ハドソンは紅茶を一口含み、淡い湯気を越えてシャーロットの顔を見た。
その瞳は、優しさと厳しさを兼ね備えている。
学園運営を担う人間の、それが自然な表情だった。
シャーロットは無言で頷き、指先でカップの取っ手をなぞった。
その指先は落ち着いているように見えるが、瞳の奥には推論が高速で回転し始めている気配があった。
「ボヘミア卿は学園理事であり、魔法省の主要協力者です」
ハドソンは、シャーロットに釘を刺す。
「まず、『持ち去った』というのは依頼側の主観です。観察の結果が出てから、用語を確定します」
シャーロットは、軽く微笑みを浮かべる。
紅茶の香りが、ふっと濃くなる。
寮長が言葉を続ける。
「記録魔法具。本来は、魔法省魔具保管局の管理下にある監査用魔法具です。省印がなければ持ち運びはできない――はずでした」
「……それを、理事であるボヘミア卿が私的に使用していた?」
「研究名目で『貸与』されたのは事実です。ボヘミア卿から、アドラー准教授へと。
ただし、その研究内容が問題でした。『人の記録を再構築する』――つまり、観測を超えて『改変』する研究です」
シャーロットは息を飲んだ。
《観測》を超える「改変」。
それは魔法理論における禁忌の一つであり、魔法省でも最も厳しく制限されている領域だ。
「でも、アイリーン――いえ、アドラー准教授の研究は言語魔法です。そんな実験など、彼女がするはずがありません」
声が少しだけ強くなる。
シャーロットには確信があった。
アドラーの研究は、言語体系、古代魔法語、他国の魔導言語との比較。
人に危害を加えるたぐいのものからは、最も遠い。
心の奥で、ひそやかな疑問が広がっていく。
ハドソンは静かに頷きつつ、紙束をめくった。
「では、その研究で、アドラー准教授は何を『観測』していたのですか?」
「第四研究室で行われていた実験。
――それは、観測という名の『書き換え』を行っていた可能性があります」
寮長は書類を見せる。
表には、容姿、精神傾向、言語反応、認知特性など、学生の個人情報が並んでいた。
――そして、目が止まる欄。
《精神傾向:可》
《認知特性:可》
《支援継続判定:条件付き》
《保護者連絡:要》
シャーロットは目を細めた。
文字は丁寧で、言葉は中立を装っている。
――けれど、意味するところは一つだ。「従うかどうか」を測っている。
「この書類は、アドラー准教授の研究室にありました。これは、奨学生たちの資料です。ボヘミア卿の奨学金を受けている子たち。彼の『後援』なしに学園に通えない子たちも多いわ」
シャーロットの指先が止まった。
言葉の残酷さが、紙の上で温度を持つ。
「学園は理想だけでは回りません」
その一言には、学園運営の現実が凝縮されていた。
理想だけでは成り立たない学園。
権力と支援の交換条件。
「この欄を誰が書いたのか、まだ確定していません。ただ一つ確かなのは、昨夜からアドラー准教授と連絡が取れないということ」
シャーロットは短く頷いた。
「私にできることは?」
ハドソンは微笑を消し、まっすぐに言った。
「勝手に学園から外へ出ないこと。
そして――あなたが動くなら、目立たないこと」
シャーロットの瞳がわずかに揺れた。
紅茶の香りが、静まり返った部屋の空気に重く滞る。
――アイリーンは、何をしようとしていたのか?




