くしゃみの理由
シャーロットの部屋は、普段より静かだった。
魔力導管の低い振動が床を伝い、陽光が窓からすべり込み、机上に置かれた観測器具にやわらかい光の輪を落としている。
ワトソンが外に出ているため、珍しく落ち着いた空気が流れていた。
シャーロットは《観測式》の写しを並べ、今朝の実験結果を思考しながらペンを走らせていた。
そんなとき、扉を控えめに叩く音が響いた。
「シャーロットさん、お久しぶりです」
姿を見せたのは、監視局管理補佐官のステラだった。
灰色の外套を整え、遠慮がちに一枚の封筒を差し出す。
「ステラ、こんにちは。レストレードからの報告書ね。ありがとう」
「はい……あ、あの、これで失礼しますので……」
声がどこか落ち着かず、ステラは部屋の隅々に視線を飛ばしている。
「大丈夫よ。ワトソンなら、今日は外に出ているわ」
「えっ……そうなんですか。よかった……いえ、その……」
ステラの肩が、ほんの僅かに下がった。
どうやら、ワトソンの存在が緊張の種らしい。
「せっかくだし、お茶でもどう?甘いものも届くはずよ」
「い、いえ、すぐ帰りますから……!」
「遠慮しないで。今話題のスイーツなの。プディングって言うのよ」
「プディング……ですか?それは……」
ステラの目がきょとんと丸くなる。
甘いものには弱いらしい。
「そう、とろりとしてて、おいしいのよ」
シャーロットは、ふとパディからもらったコーヒー豆の存在を思い出した。
珍しい抽出器具と一緒に渡されたものだ。
部屋の隅から器具を取り出し、湯を沸かし始める。
豆を挽いた瞬間、香りがふわりと広がった。
ゆっくりと、引いた豆にお湯を注いだ。
「いい匂い……紅茶とはまた違うんですね」
「パディ先輩がくれたの。アメリカでは、人気みたい」
ステラはおずおずと席に座ったが、落ち着かない足先は、まだそわそわと揺れている。
そのとき――
階段を上ってくる軽やかな足音が響いた。
「疲れた……今日は外がすごく混んでたわ」
扉が開くと、ワトソンが白衣姿のまま入ってきた。
手には紙袋がひとつ。
「買ってきたわよ、シャル。……あら、ステラも来てたの」
「こ、こんにちは……」
ステラの背筋がぴんと伸びた。
視線はワトソンに釘付けで、まるで固まってしまったようだ。
ワトソンは不思議そうに首をかしげる。
「どうしたの、そんな端っこに寄って。別に食べたりしないわよ?」
「い、いえ……その……壁が綺麗だと思って……」
苦しすぎる言い訳だった。
ワトソンはくすりと笑って近づく。
「綺麗な人ですね……」
ぽつりと漏らしたステラの言葉に、ワトソンは満足げに微笑んだ。
「あら、ステラ、分かってるわね」
そう言うやいなや、ワトソンは勢いよくステラを抱きしめた。
「わ、わ……くしゅんっ!」
小さなくしゃみをした。
「大丈夫?」
「す、すみません」
シャーロットは苦笑しながらコーヒーを注ぎ、ワトソンは紙袋からプディングを三つ取り出した。
「ほら、プディング。できたてよ」
淡い金色の表面が光を受けて揺れ、スプーンを入れると、とろりとする。
「……甘い……こんなに優しい味があるんですね」
ステラの目がふわりとほどけた。
シャーロットはその表情を観測するように、そっと見つめる。
ステラは、シャーロットが淹れたコーヒーを一口飲む。
「お、おいしい」
「よかった。パディが薦めてくれたのよ」
ワトソンはコーヒーを一口飲み、大きく息をついた。
「ふう……生き返るわ。シャルの淹れたコーヒーは、やっぱり好き」
「そう?まだ慣れてないけれど」
三人でゆっくりとした時間が流れた。
やがて、ステラは黒い外套を整えて立ち上がった。
「そろそろ戻ります。……ごちそうさまでした」
「またいつでもきて頂戴」
階段を降りる途中、ステラはふと立ち止まった。
胸の奥で、かすかに震えるような感覚があった。
「……あの綺麗な人、どこかで会ったことがある気がするけど。あんなに印象の強い人、忘れるはずないのに……」
自分でも説明できない既視感に眉を寄せながら、ステラは静かに塔を後にした。
「くしゅん、くしゅん」
くしゃみが止まらないなと思いながら。




