第五章 五つのオレンジの種(四)
ロンドン港。
ロンドン港は、一つの場所を指すものではない。
ロンドンの街を横断するテムズ川に沿って、都心から東の河口へ向かって広がる強大な港湾地帯である。。ロンドン港の東へさらに下るところに、客船と商船が集まる場所がある。
港からは、錆びた重機が軋む音、鎖が波に擦れる低い金属音が響いていた。
そこに霧の海を割るように、古い補助蒸気船がゆっくりと動き出していた。
積荷の影も、人影も判別できない。
シャーロットとレストレードは、ワトソンからの断続的な位置情報を頼りに、港へ飛ぶように駆け込んできた。
「どこにいる!?」
「今、貨物船に乗り込んだわ!船名は確認できない」
「くそっ……くそっ……!」
レストレードは歯を噛みしめ、携帯通信機を乱暴に切る。
「本庁は“動くな”の一点張りだ。記録も残すな、介入もするな……!」
「そんなの、今はどうでもいいわ」
シャーロットは前を見据えたまま言い切った。
「――追いつく」
二人は桟橋を走る。
濡れた木板が靴の下で鳴り、霧の向こうで船の汽笛が短く鳴った。
だが、船はすでに沖へ出ていた。
「レストレード、魔導銃は?」
「持ってきたが……距離がある。それに――」
銃口を上げたまま、彼は動けずにいる。
「くっ……!」
シャーロットは手のひらに魔法式を展開しかけた。
だが、その瞬間――
ワトソンが耳をぴんと立てた。
「シャル……何か来るにゃ」
沖へ出た船の周囲が、急に暗く沈んだ。
霧が濃くなったわけではない。
月光そのものが、奪われたかのようだった。
次の瞬間――
轟音が、港全体を震わせた。
船の左舷側が、内側から爆ぜたように破裂する。
「なっ……!!」
「にゃ……船が爆発したにゃ!!」
衝撃は一度きり。
追撃も、警告もない。
船体が大きく傾き、黒煙が立ち上り、木片と金属片が霧の中へ飛び散った。
叫び声は、聞こえなかった。
助けを求める声も、ない。
シャーロットは息を呑む。
――その一瞬。
船の影の奥で、黒い印章が光った気がした。
幾何学的だが、どの体系にも属さない形。
円でも、角でもない。
欠けたまま、完成している紋。
「……見えた?」
「……見えないにゃ」
ワトソンは首を振った。
それが、何よりの答えだった。
レストレードは桟橋の端を強く握りしめ、歯を食いしばる。
船は、抗うこともなく、ゆっくりと海に沈んでいく。
波が飲み込む音だけが、静かに続いた。
シャーロットとレストレードは、ただ、それを見つめるしかなかった。
沈んでいく船を見送りながら、
シャーロットは静かに口を開いた。
「……レストレード。オレンジの種――わかったわ」
「何なんだ、あれは?」
「オレンジの種は、“今、発動した呪い”じゃない」
彼女は霧の海から目を離さない。
「ずっと昔に結ばれた契約の“印”よ」
「契約……?」
「A.M.Aは、彼らにオレンジの種の契約を結ばせていた」
淡々とした声。
だが、その奥には確かな怒りがあった。
「裏切れば、いつか必ず“種”が届く」
「……脅し、じゃないのか」
「違うわ」
シャーロットは首を振る。
「封筒が届くのは警告じゃない。“処刑が決まった”という宣告よ」
言葉を選ぶことなく、続ける。
「それは本人だけじゃない。――家族にまで及ぶ」
レストレードは、ゆっくりと理解していく。
「……だから、亡命者の息子であるジョンにも……」
「ええ」
シャーロットは頷いた。
「種は象徴であると同時に、本人の身体に直接“死”を呼び込む鍵」
「契約は守らせるためのものじゃない」
彼女の声が、わずかに低くなる。
「破った“あと”を管理するためのものよ」
レストレードはしばらく黙っていた。
「……魔法省は、それを知っていたのか」
「知っていたからこそ、魔法省は動かなかったのよ」
シャーロットは、冷たく言い切った。
「『オレンジの種が届いた時点で、死は確定』――そう判断したのでしょう」
「だから、見て見ぬふりをして……」
「そして今度は、“監視していた何者か”を船ごと誰かが処理した」
彼女は海を見下ろす。
「証拠も、口も、すべて海の底へ捨てられたわ」
数日後。
事件確認のため、レストレードは再びシャーロットを訪ねた。
「……ステラは大丈夫?」
シャーロットは、いつもより少し柔らかい声で尋ねた。
「医務室で検査は問題ない。しかし、精神的にはボロボロだが……」
レストレードは帽子を深くかぶり直す。
「あいつも監視局の一員だ。簡単には折れん」
「そうね」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。




