第五章 五つのオレンジの種 (一)
ベイカー室。
学生寮塔の最上階にあるその部屋は、夜な夜な奇怪な音が聞こえるという。
その部屋の主は、塔の幽霊と呼ばれる少女。部屋には常駐の医者がその少女を看護をしている。更には、猫も住み着いているらしいという噂さえも流れている。
その部屋の主、シャーロットはペンを走らせ、観測記録と理論式の照合を続けている。ほんのわずかな違和感を楽しんでいる。その集中を断ち切るように、重く、ためらいのなく扉が叩かれた。
「……こんな時間に?」
ペン先が止まる。
返事を待たずに続く二度目の扉からの音。
「シャル、嫌な予感しかしないにゃ……」
ワトソンが、眠そうに言う。
「どうぞ」
シャーロットが短く告げると、扉は静かに開いた。
立っていたのは、黒い外套の男――
魔法省監視局監査官、レストレード。
だが、今夜の彼は、いつもと違っていた。
黒い外套の裾には乾ききらない泥。
その背後に、ひとりの少年が立っていた。
学園の制服に身を包んではいるが、肩は強張り、指先は震えている。
「……シャーロット。こいつを匿ってもらいたい」
「匿う?」
「ジョン・オープンショー。学園の一年生だ。 ――“保護対象”としてだ」
空気が、少し冷えた。
「保護対象……どういう意味?」
レストレードは一瞬だけ視線を伏せ、それから少年の肩に軽く手を置いて、室内へ促した。
「……ああ、すべて説明する」
「十年前、アメリカにある魔導研究所 《A.M.A研究機関》から、二人の魔導研究者がロンドンへ亡命した」
レストレードの声は低く、乾いていた。
「イーライ・オープンショウと、その弟、レミントンだ」
「……オープンショウ?」
「そうだ。こいつの父親と、叔父にあたる」
シャーロットの表情が、わずかに引き締まる。
「A.M.A……世界最高峰の研究所よね。理論魔法、核観測などを研究している。なぜ、そんな場所から亡命を?」
「二人は、魔法省の協力者だった。表向きは研究員。裏では、A.M.A内部の研究動向を密かにこちらへ流していた」
ワトソンが小さく唸る。
「……スパイ?」
「ああ。だが、それがA.M.A内部に漏れた可能性があった。研究所は“失敗”を許さない。命の危険が生じたため、魔法省が水面下で保護した」
「それが……なぜ今になって?」
「先月の魔法汚染事故だ」
「……ボスコム谷の」
シャーロットの声が低くなる。
「あれに使われた基礎理論。オーストラリア経由で流れた研究データは、元を辿れば、A.M.Aの理論体系だ」
「つまり……」
「魔法省は、A.M.A由来の危険理論を把握していた。それを――ボヘミア卿の財団が“再実験”に使った」
沈黙。
「十年前から水面下で続いていた核観測再構築計画が、あの事件で、ついに“表”へ出た」
シャーロットは、静かに理解する。
「その過程で、研究内容の一部がA.M.Aへ逆流した……」
「そうだ。しかも問題は、それだけじゃない」
レストレードの声が、さらに低くなる。
「情報は本来、魔法省の管理下にある。だが……内部に、スパイがいる」
「……内部スパイ」
シャーロットの瞳が細くなる。
「A.M.Aは判断した。研究成果を“勝手に”使われ、失敗の責任だけ押し付けられたと」
「だから――」
「報復だ。直接手は下さない。裏の組織に依頼し、裏切り者を消す」
ワトソンの尾がぴくりと揺れる。
「亡命者――
イーライ・オープンショウと、レミントンは、このひと月で相次いで“事故死”した」
レストレードは、苦い表情を浮かべた。
「だが、二つの現場には共通点があった」
「それがこの封筒だ。」
その瞬間、怯えた少年が、一歩前に出た。
「これです。五つの……オレンジの種です……」
震える声。ジョン・オープンショーは、胸元から一通の封筒を取り出し、両手で強く握りしめた。
「父と叔父は……この封筒を受け取ったあとに……亡くなりました」
「……事故じゃない。僕にも、それだけは……わかります……」
シャーロットは、封筒に視線を落とし、静かに言った。
「“五つ”の観測点を示す印……?」
ペンを置き、立ち上がる。
「――呪い?それも、かなり古い形式?」
ワトソンが、低く息を吐いた。
「……嫌な事件になりそうにゃ」
「魔法省、監視局は動かない。十年前の件で、A.M.Aとは争いたくないらしい」
レストレードの声には、苛立ちよりも疲労が滲んでいた。
それは、何度も同じ説明を上に繰り返した者の声音だった。
「“らしい”って……あなたはどうなの?」
シャーロットは即座に問い返す。
「俺は関係ない」
そう言い切ってから、レストレードはわずかに視線を逸らした。
「上には掛け合ってる。だが動かない」
レストレードは息を吐いた。
「外交と研究協定――全部が噛んでる。A.M.Aは、もう“研究所”じゃない」
AMAは、国の管轄以上に、世界的に勢力を広げている。
各国の研究機関、魔法理論の共有条約、そして“核観測”という、扱いを誤れば世界を揺るがす概念。それらが絡み合い、A.M.Aは“触れてはならない存在”になってきている。
「だからといって――」
「わかっている」
レストレードは遮るように続けた。
「だがな、俺は少年を見捨てるつもりはない。公式には動けなくても、目の前で殺されるのを見過ごす気もない」
彼は椅子を引き、正面からシャーロットを見据えた。
「学園内なら、魔導障壁がある。複層結界、学園独自の認証式、部外者――A.M.Aの刺客でも、簡単には入れない」
言葉を選びながら、続ける。
「しばらく、こいつをここに隠したい」
「……それで、なぜ私に?」
シャーロットは肩をすくめるでもなく、静かに問いを投げた。
「おまえなら、学園の“表”と“裏”の両方が見える」
学生であり、監視局とも水面下で繋がる観測者。
「この学園で、最も安全で……そして、最も危険な場所は――」
レストレードは苦い顔で言った。
「おまえの隣だ」
シャーロットは短く息をつき、肩をすくめた。
「皮肉ね」
「それでも頼みたい」
彼は一拍置き、さらに続ける。
「そして――ついに、ジョンにも届いた。“オレンジの種”の封書がな」
その言葉で、空気が張り詰める。




