第十六章 黄色い顔 (一)
グラント・マンローは、外務調査局員だ。
魔法省外務調査局。
国外で起きる魔法事件の調査や情報収集を担う部署であり、彼は現在、アメリカ支部に派遣されている。
魔法都市ロンドンは、世界でも最大級の発展を遂げた魔法都市だ。
華やかな魔法技術の成果が次々と生み出され、その恩恵を多くの人々が受けている。
だが、その成果を陰から支えているのが、自分たち外務調査局であるとグラントは考えていた。
決して綺麗な仕事ではない。
人を疑い、秘密を探り、ときには相手を騙すことさえある。
それでもグラントには、この仕事への誇りがあった。
そして、国への忠誠心も。
そんな彼に、自分の世界が変わってしまうほどの出来事が起きた。
初めて、人を好きになった。
周囲から見れば、その女性は特別に美しいわけではなかった。
愛想が良いわけでもない。
むしろ、初対面ではどこか近寄りがたい印象さえあった。
それなのに、なぜか彼女のことが気になった。
心のどこかに何かが刺さったようだった。
放っておけばそのうち抜けると思っていたのに、いつまで経っても抜けない。それどころか、顔を見るたび、声を聞くたび、その存在は少しずつ深く入り込んでくる。
グラントは初めて、それに苦しんだ。
まるで青臭い少年ではないか。
そう思うと、自分でも馬鹿らしかった。
これまで仕事ならば、どんな問題でも考え、調べ、答えを見つけてきた。それなのに、この感情をどう扱えばいいのかだけは、まるでわからない。
仕事にまで身が入らなくなった。
そんな日々を過ごしているうちに、二人の関係は少しずつ変わっていった。
最初は、顔を合わせたときに挨拶をするだけだった。
その挨拶が短い会話になり、会話を交わす時間が少しずつ長くなった。
やがて一緒に食事をするようになり、気がつけば、二人で過ごす時間そのものが当たり前になっていた。
そして、二人は結ばれた。
その頃、グラントのアメリカ支部での任務も終わりを迎えようとしていた。
彼は、ロンドンへ帰ることになった。
「少しだけ……」
そう言って。
何をしなければならないのか。
グラントは聞こうとしたが、彼女は詳しく話そうとはしなかった。
「それでも、俺は待っている。一緒にロンドンへ来てほしい」
グラントは、自分でもそんな言葉が出るとは思わなかった。
仕事では、人との関係を簡単に断つ。
任務のために知り合い、任務が終われば別れる。
その場だけの関係。
今までは、それで何とも思わなかった。
だが、彼女だけは違う。
そう信じていた。
その言葉を聞いた彼女は、しばらく何も答えなかった。
そして、
「待っていて。きっと行くわ」
そう答えた。
こうしてグラントは一人、船に乗り、ロンドンへ戻った。
三か月後。
グラントは、魔法都市ロンドンでの仕事に没頭していた。
その頃、ロンドンでは街を揺るがす大きな事件が相次いでいた。
外務調査局の内部も、かなり混乱している。
というのも、一連の事件には外務調査局そのものが深く関わっていたからだ。
アメリカ支部から戻ったばかりのグラントも例外ではない。
集められた情報の確認、関係者への聞き取り、各支部との照合。
朝から晩まで仕事に追われる日々が続いた。
彼女のことを忘れたわけではない。
ただ、考える時間さえなかった。
やがて事件が終わり、騒がしかったロンドンにも、少しずつ平穏な空気が戻り始めた。
そんなある日、一通の手紙がグラントのもとに届いた。
彼女がロンドンへ来る。
何度読み返しても、そう書いてある。
グラントはあまりの嬉しさに、手紙を握ったまま一人で声を上げた。
同僚たちが何事かとこちらを見ていたが、そんなことさえ気にならなかった。
そして、約束の日。
グラントが玄関の扉を開けると、彼女が立っていた。
三か月前と変わらない。
相変わらず愛想のない表情。
それでも、その瞳に宿る強さだけは何も変わっていなかった。
「久しぶり」
彼女は、それだけ言った。
グラントはその姿を見て、また恋をした。
二人は、結婚した。
妻となったエフィーは、アメリカでは魔法学園の研究室に勤めていた。
ロンドンへ来てからも、ほどなくしてロンドン魔導学院で働くことが決まった。
グラントが口添えをしたわけではない。
アメリカの魔法学園とロンドン魔導学院との間に、何かしらのつながりがあったのかもしれない。
それでもグラントは嬉しかった。
エフィーが、自分と同じように仕事に誇りを持っていることが。
ロンドンへ来たからといって自分に頼りきるのではなく、自分の仕事を持ち、自分の生活を築いていることが。
二人の暮らしに、特別なことが起こるわけではなかった。
朝になればそれぞれ仕事へ向かい、夜になれば同じ家へ帰ってくる。
ときどき外で食事をし、休みが重なれば二人で旅行へ出かける。
特別と呼べるものは、そのくらいだった。
それでもグラントは、幸せだった。
きっと、エフィーも幸せだったはずだ。
少なくとも、グラントにはそう見えていた。
結婚してしばらく経った頃、隣家に誰かが引っ越してきた。
向こうから挨拶に来ることはなかった。
グラントも、ちょうど仕事が忙しい時期だったこともあり、こちらから挨拶に行くことはなかった。
いつか時間がある時にでも行けばいい。
その程度にしか考えていなかった。
――あの黄色い顔を見るまでは。
最初は、それほど気にしていなかった。
たまたま窓の向こうに見えただけだ。
人の顔だったと思う。
ただ、妙に黄色く、不自然なほど青白くも見えた。
それだけのことだった。
だが、時間が経っても、あの顔だけは頭の片隅に残り続けた。
仕事をしている時。
食事をしている時。
何でもない瞬間に、ふと思い出す。
あれは、本当に人の顔だったのだろうか。
そう思うこともあったが、確かめようとはしなかった。
それ以来、グラントは意識して隣家の窓を見ることもなくなった。
やがて、黄色い顔のことも忘れかけていた。
――エフィーが、隣家の扉から出てくるのを見るまでは。
なぜ、エフィーがあの家から出てくる?
声をかけることもできず、グラントはその姿を見ていた。
その日からだった。
仕事をしていても、食事をしていても、エフィーと話していても、隣家のことが頭から離れない。
グラントは、何をしていても手につかなくなった。
そんな彼を見かねて、同じ局内のセドリックは言った。
「知り合いを紹介しよう」
そして――。




