第十五章 銀星号事件 (九)
「軍は、あの事故が起きてから、第二王子との関係を見直し始めた。一部の人間たちが暴走した結果だった。安易な考えだった。その者たちは、これから遠い戦地へ送られる」
第二王子の派閥が粛清されはじめていた。
元々、軍はどの王族の派閥にも属していなかった。
「軍隊は国を守るためにあるものだ。決して、誰かの私利私欲のためにあるものではない。ましてや、王族同士の権力争いに利用されるなど、あってはならん」
ロス伯爵は、草原の向こうを見ながら言った。
ロイヤルアスコット杯が終わった後。
シャーロットとロス伯爵は、厩舎を見下ろせる小高い丘にいた。
少し離れたところには、ワトソンが立っている。
「当時の軍は、他国との戦争や紛争の鎮圧がうまくいかず、大議会から予算を削減され続けていた。予算を減らされて、一番困るのは最前線にいる兵士たちだ」
伯爵の声が少し低くなる。
「だが、儂には大議会を動かすほどの政治力はなかった。そんな時だ。第二王子と会談する機会を得た」
第二王子について、良いうわさはほとんど聞かなかった。
それでも。
「少なくとも、他の王族や貴族よりは軍のことを考えてくれている。そう思ったのだ。いや――儂が勝手にそう思い込んだだけだったのだろうな」
それが始まりだった。
軍と第二王子の間に関係が生まれ、新たな支持者を得たことで、大幅な予算削減は避けられた。
その結果、軍はさらに第二王子との関係を深めていった。
しかし。
軍内部の一部と第二王子は、次第に暴走を始めた。
旧東インド研究所から集められた実験資料。
それを基にした、軍独自の非公式研究。
そして、その先で起きた。
第三王子暗殺未遂事件。
おそらく、本当の標的には第一王子も含まれていた。
「途中で気づいた。これは軍を救うためのものではないとな」
ロス伯爵は拳を握った。
「だが、その時にはもう遅かった。一度動き始めた軍という組織は、儂一人の意思では止められん」
しばらく、誰も何も言わなかった。
風だけが草原を流れていく。
「そんな中、第二王子は儂に褒美を与えると言ってきた」
シャーロットは伯爵を見る。
「それが、シルヴァー・ブレイズの勝利?」
「ああ」
ロス伯爵は苦々しく答えた。
「第二王子はレースを操作しようとしたのだ」
「八百長ね」
「あの馬なら、そんなことをしなくても勝てる」
その言葉だけは、迷いがなかった。
「あの馬は強い。儂はそれを知っている。だが、もし第二王子が手を回したといううわさが流れれば、たとえ実力で勝ったとしても誰も信じなくなる」
勝利そのものが汚される。
シルヴァー・ブレイズが積み重ねてきたものまで。
だから、ロス伯爵は馬を逃がした。
第二王子の計画そのものを成立させないために。
「調教師も第二王子と繋がっていたのね」
シャーロットが言う。
伯爵は静かに頷いた。
調教師は、シルヴァー・ブレイズに魔法をかけようとしていた。
馬を強くするためではない。
レース中、一定の条件で馬の行動を操作するための魔法。
もちろん、競馬では禁止されている。
だが、シルヴァー・ブレイズは異変に気づいた。
暴れた。
そして――調教師を蹴った。
それが死因だった。
草原の向こうを、一頭の馬が走っていた。
銀色の毛並みが陽の光を受けて輝いている。
シルヴァー・ブレイズ。
シャーロットは、しばらく何も言えなかった。
ただ走っているだけだ。
それなのに、目を離すことが出来ない。
力強く。
美しく。
何より、楽しそうに草原を駆けている。
やがてシルヴァー・ブレイズは足を止め、こちらを振り向いた。
シャーロットはゆっくり近づく。
馬も逃げなかった。
脚。
筋肉。
呼吸。
毛並み。
シャーロットは一つ一つ確かめる。
どこにも不自然なところはない。
魔法によって無理に能力を引き上げた痕跡もなかった。
「大丈夫よ」
シャーロットは馬の首筋にそっと触れた。
「八百長は起きなかった。あの勝利は、あなたの実力よ」
ロス伯爵は何も答えなかった。
ただ、シルヴァー・ブレイズを見つめていた。
シャーロットはレース前、パドックに並んだすべての馬を《円》で観測している。
強化魔法も、操作魔法もない。
その結果は主催者と王族にも報告され、王宮親衛隊の捜査官であるグレゴリーも立ち会っていた。
シルヴァー・ブレイズの勝利に、不正はなかった。
「それより、一つ気になることがあるの」
シャーロットは、シルヴァー・ブレイズを見たまま言った。
「何だ?」
「この馬、少し変よ」
ロス伯爵の眉が動く。
「変?」
「悪い意味じゃないわ」
シャーロットは馬の脚を見る。
「これだけの身体能力があるのに、強化魔法を使って育てた痕跡がほとんどない」
筋肉の付き方。
脚の運び。
呼吸の安定。
魔法で一時的に能力を底上げした身体とは違う。
「どうやって、この馬をここまで育てたの?」
「ああ。それか」
伯爵は少し考えた。
「儂にも詳しいことはわからん。実証研究というものらしい」
シャーロットの手が止まった。
「実証研究?」
「ああ」
実証研究。
シャーロットは、その言葉を頭の中で繰り返した。
観察する。
記録する。
比較する。
そして、結果を確かめる。
――科学。
この国では、競走馬の育成にも魔法が使われる。
筋力。
回復。
成長。
魔法によって補助することが当たり前だった。
だが、シルヴァー・ブレイズは違う。
「ロス伯爵。もう一つ聞きたいのだけれど」
「何だ?」
「この馬の育て方は、軍で研究したもの?」
「いや」
伯爵は首を横に振った。
「王立学園と協力して行っている」
「王立学園……」
「ああ。そこの教授と昔から知り合いでな」
シャーロットは、少しだけ目を細めた。
「その教授の名前は?」
ロス伯爵は、何の疑いもなく、その名を口にした。




