第十五章 銀星号事件 (七)
ロイヤルアスコット杯。
世界最大級の競馬大会。
ロンドンから少し西に位置するバークシャー州アスコット。その地にあるアスコット競馬場で開催される、王室主催の競馬大会だ。
貴賓席には王族たちが座り、その周囲を王宮親衛隊が固めている。
メインスタンドには、すでに大勢の観衆が集まっていた。
そんな華やかな会場の中に、自分たちは場違いだと思っている三人がいた。
シャーロットとワトソン、そしてステラだ。
三人とも、普段は着ないドレスに身を包んでいる。
シャーロットが着ているのは、濃紺の仕立てのよいドレスだった。華やかさは控えめだが、シャーロットの白い肌によく映えている。
その手には、ロス伯爵から届いた招待状があった。
ワトソンは淡い青色のドレスに、小ぶりの帽子を合わせている。
ステラは明るいクリーム色のドレスを着て、花飾りの付いた帽子をかぶっていた。
しかし、彼女は先ほどから少し落ち着かない様子だった。
シャーロットは動きにくそうにドレスの裾を気にしながら、いつも以上に鋭い視線を周囲へ向けている。
ワトソンは、周囲の視線を一身に集めていた。
そんな三人に近づいてくる者がいた。
「似合っているな」
グレゴリーだった。
以前会ったときは制服を着崩していたが、今日は王宮親衛隊の正装に身を包んでいる。
「あなたもね」
ワトソンが軽く返した。
グレゴリーが現れたことで、周囲から向けられる視線が変わった。
王宮親衛隊が直接声をかける相手となれば、王族に近しい関係者だと思われても不思議ではない。
グレゴリーが捜査局の人間だと知っている者など、ここにはほとんどいない。
そのため、三人はさらに注目を浴びることになった。
ステラは、ますます居心地が悪そうにしている。
「場所を変えようか?」
グレゴリーに連れられ、シャーロットたちはパドックの裏手へ移動した。
「本当に大丈夫なのか?」
「ええ。問題ないわ」
グレゴリーが尋ねているのは、今回出走する馬のことだ。
単に出走を取りやめるだけなら、まだ問題は小さい。
しかし、何らかの偽装をして出走させたとなれば、多くの人間の首が飛ぶ。
間違いなく、グレゴリー自身にも被害が及ぶだろう。
それほど重大なことだというのに、シャーロットはドレスの裾を少し気にしているだけのような顔をしていた。
その表情を見たグレゴリーは、あっさりと追及を諦めた。
――まあ、なんとかなるだろう。
おそらく、その考えがグレゴリーの心の奥底には常にある。
だからこそ、かつての上司は彼を警護任務から外した。
常に危険を警戒し、最悪の事態を想定するのが警護の基本だ。
それにもかかわらず、グレゴリーには、最後にはどうにかなるという楽観的なところがある。
それが自分を捜査局へ回した理由の一つであることに、グレゴリー本人はまだ気づいていなかった。
そこへ、ロス伯爵が現れた。
「君たちか」
ロス伯爵の表情は厳しい。
今日出走するはずの馬の行方が分からないのだから、当然だった。
「見て」
シャーロットがパドックへ視線を向ける。
そこには、シルヴァー・ブレイズのゼッケンを着けた馬が歩いていた。
優雅に歩く姿からは、優勝候補と呼ばれるだけの風格が感じられる。
ただし、いつもとは違うところが一つあった。
銀色の耳覆いが付いたフードを着け、顔を隠している。
シルヴァー・ブレイズは普段、顔には何も着けず、威風堂々と歩く馬だった。
「あれは……本当にシルヴァー・ブレイズなのか?」
顔は隠されている。
それでも、脚の筋肉のつき方や腹回りの毛色、そして銀色に輝くたてがみが見えていた。
長年その馬を見てきたロス伯爵が、見間違えるはずがない。
「どうやって……」
その声には、驚きと困惑が入り交じっていた。
「さあ、楽しみましょう」
シャーロットはロス伯爵の反応を確かめると、そう言ってメインスタンドへ戻っていった。
出走馬たちは発走地点へ集められ、係員の指示に従って、それぞれの枠へ入っていく。
やがて場内が静まり返った。
聞こえてくるのは、馬の荒い息遣いと、騎手や係員が立てるわずかな物音だけだった。
シャーロットは双眼鏡を構え、貴賓席を見る。
王族たちが一列に座っていた。
その少し前の席には、今回出走する馬の所有者たちがいる。
もちろん、ロス伯爵もその中にいた。
発走地点には十頭の馬が並んでいる。
シルヴァー・ブレイズは中央に近い五番枠。
最大のライバルは、第一王子派の貴族が所有する馬、デズボロだ。
七番枠に入っている。
発走の合図が響いた。
十頭の馬が一斉に飛び出す。
静まり返っていた競馬場が、割れんばかりの歓声に包まれた。
しかし、シャーロットは馬たちの走りを見ていなかった。
双眼鏡を構えたまま、ただ貴賓席を見続けている。
そこにいる、一人ひとりの表情を。
結果は、シルヴァー・ブレイズの圧勝だった。
二着に六馬身もの差をつけての勝利。
競馬場全体が、地鳴りのような歓声に包まれている。
だが、誰よりも喜んでいるはずのロス伯爵の顔は、固まっていた。
やがて、輝く優勝杯がロス伯爵の手に渡った。




