第9話 銀猫さん、宿に落ち着く
裏庭は思ったより広かった。
薪小屋、井戸、洗い桶、そして壁際に張り出した大きな庇。
その下には乾いた藁が、たくさん積まれている。
雨風をしのぐだけなら、たしかに悪くない。
ギンは庇の下へ歩き、藁の匂いを確かめるように鼻を近づけた。
それから、前脚で軽く藁を押す。ふかふか具合を検査しているらしい。
――まあまあ。
「最高評価ではないんだな」
――ふとん、ない。
「藁で我慢してくれ。僕だって今日は雑魚寝部屋だ」
――げぼく、だから。
「やかましいわ!」
思い返すと、生前はギンと一緒に寝ない日はほとんどなかった。
枕元で寝たり、足元で寝たり、腹や胸の上にのしかかって寝たり……。
「前は、まだ十キロ程度だったしね。今は無理だよ」
――たろう、でぶ。
「確かに……お互い、体重を責めるのは止めておこう」
女将は僕たちのやり取りをじっと見ていた。
僕の言葉の半分以上は独り言に聞こえているはずだが、
珍妙な客にも慣れているのか、深く追及しない。
「まあ、銀猫様がそこで納得してくれるなら、こっちは助かるよ。
藁はあとで足しておく。水桶も大きいのを出そう」
「ありがとうございます。あと、できれば……皿は大きめでお願いします」
「皿で済むかねえ」
しばらくして、ミナと呼ばれた若い娘が、
厨房から大きな木鉢を両手で抱えて出てきた。
中には湯気の立つ端肉と骨まわりが山のように盛られている。
人間用の一皿というより、村の祭りで出す大皿料理だった。
ギンは木鉢の前に座り、まず匂いを確かめた。
次に僕を見る。最後に女将を見る。
その目は、厳正な品質検査を行う査察官のそれだった。
――よい。
「とてもおいしいそうだと言ってます」
「そいつは光栄だね」
女将が肩をすくめると、ギンはようやく食べ始めた。
がつがつ、というより、黙々と、しかし確実に量が減っていく。
大きな体に似合わず食べ方は妙に上品で、骨をかじる音が裏庭に小さく響いた。
僕の方にも、食堂の隅に席が用意された。
木の椀には、塩気の強い肉と根菜の煮込み。
皿には黒っぽいパンが二切れ。飾り気はない。
だが、湯気と匂いだけで涙が出そうになる。
一口すすった瞬間、塩が舌に広がった。濃い。かなり濃い。
日本なら健康診断で保健師さんに眉をひそめられる味だ。
今の僕には、その塩気が心地よく骨身に染みた。
食堂の客たちは、僕を見ているようで、実際には窓の外のギンを見ていた。
木杯を持ったまま固まる者、こそこそ祈りの仕草をする者、
子どもにせがまれて裏庭を覗きに行く者。
岩塩亭はいつの間にか、小さな見世物小屋のようになっていた。
「あんた、名は?」
女将が、追加の水差しを置きながら尋ねた。
「タローと呼んでください」
「変わった名だね。遠いところから来たのかい」
「たぶん、かなり遠いんじゃないかと……」
一回死んで、ここに来ちゃいました、とは言わなかった。
初対面の宿屋の女将に出す情報としては、あまりに重すぎる。
女将は僕の顔をしばらく見てから、声を少し落とした。
「今夜はここにいな。
外はやめておきな。最近、森の方で魔獣が増えてる。
角兎が街道近くまで出るなんて、前はなかったんだ」
僕は椀を持つ手を止めた。
草原で出会った角兎は、ただの導入イベントではなかったらしい。
この世界にも、この村にも、何かが起きている。
窓の外で、ギンが食事の手を止め、森の方角へ顔を向けた。
――におう。
楽しい夕飯になるはずだった。
けれど湯気の向こうで、異世界の夜が少しずつ不穏な色を帯び始めていた。




