第8話 銀猫さん、一宿一飯の交渉
ロッツが扉を押し開けると、まず熱気が押し寄せてきた。
暖炉の火、煮込まれた肉と野菜、焼きたての黒っぽいパン。
外の土と藁の匂いに慣れかけていた鼻が、一気に宿屋の匂いで満たされる。
腹が、実に正直な音を立てた。
「情けない音を出すんじゃないよ、旅の人」
低く、よく通る声だった。
見ると、帳場らしき台の向こうに、腕まくりをした女の人が立っていた。
年の頃は僕より少し上かもしれない。
背は高くないが、肩と腕がしっかりしていて、片手には大きな木べらを持っている。
(テンプレだ……)。
この人が、岩塩亭の女将らしい。
肝が据わっているというロッツの言葉は、どうやら誇張ではなかった。
女将は僕を見て、紹介札を見て、
それから入口の影に収まりきらずに座っているギンを見た。
木べらが、ぴたりと止まる。
「……なるほど。
今日の客は、人間一人と銀猫様一柱ってわけかい」
「ひとはしら、ですか……」
「少なくとも、銀猫様を一匹扱いはできないね。
うちの戸口を半分ふさいでる猫なんざ、初めて見たよ」
言われて振り返ると、ギンは本当に入口の内側で丸く座り、
出入り口のかなりの面積を占拠していた。
しかも、表情は堂々としている。
――よい、やど。
「まだ泊めてもらえると決まったわけじゃないぞ」
僕は慌てて、肉屋でもらった木片と銅貨を帳場の上に並べた。
木片には、焼き印で簡単な兎の角のような印が押されている。
紹介札、というより、村の中で通じる引換券のようなものらしい。
「角兎を肉屋で引き取ってもらいました。
これで、一泊と食事をお願いできると聞いたのですが」
女将は木片をつまみ上げ、焼き印を確かめた。
次に銅貨を二枚、指先で弾く。乾いた音が、帳場の上で小さく響いた。
「角兎一匹なら、普通の旅人一人分には十分だね。
夕飯、朝飯、雑魚寝部屋の一角。そこまでは見てやれる」
「ありがとうございます。大変助かります」
僕が頭を下げると、入口の方からギンの喉鳴りが聞こえた。
ゴロゴロ、というより、ゴロロロ、に近い。
床板がわずかに震えている。
――ぎんも。
はい、来た。最大の交渉項目である。
「それと、できれば、こちらの銀猫様にも
水と食事を少し分けていただけませんでしょうか」
女将はギンを見た。ギンも女将を見た。
ーー宿屋の主と銀霜猫王。
視線だけで何かの商談が始まったような沈黙が落ちる。
「少しで足りる、って顔じゃないねえ」
「おっしゃる通りです」
即答してから、自分の交渉術がいきなり崩壊したことに気づいた。
元・会社員として、もう少し粘るべきだったかもしれない。
女将はふっと笑い、銅貨を一枚だけ帳場の奥へ滑らせた。
「この一枚は銀猫様の水代。
飯は、角兎の端肉と骨まわりを出してやる。
ただし厨房には入れない。客の皿に顔を突っ込まない。
寝床は裏庭の庇の下。これが条件だ」
僕は頭の中で条件を整理した。
水あり、食事あり、雨風をしのげる寝床あり。厨房不可、客席不可、皿への介入不可。
こちらの希望に対して、かなり現実的な落としどころである。
「承知しました。その条件でお願いします」
――そと、やだ。
頭の奥に届いたその一語には、明らかな不満がにじんでいた。
「けれど客室に入ると、たぶん床が抜けます」
――しつれい。
「でも、庇の下なら雨にも濡れないし、ごはんも出る。
まずは一泊させてもらうことを優先しようよ」
ギンはしばらく考えるように目を細めた。
それから、ゆっくりと右手を上げる。
――ごはん、さき。
ギンの中では、まずは目先の晩ごはんが最優先のようだ。
女将は厨房の奥へ向かって声を張った。
「ミナ、端肉を少し大きめに切っておやり。
骨まわりもだ。銀猫様の分だよ」
厨房の奥から、「え、本当に銀猫様?」という若い声が返り、
すぐに鍋の蓋が鳴る音と、包丁がまな板を叩く音が続いた。
どうやら噂は、料理より早く厨房へ届いたらしい。
ギンの耳が、ぴんと前を向く。
――よい、ひと。
「評価が早いな」
「たくさん飯を出す宿は、だいたい良い宿さ」
女将はそう言って、帳場の横から古い灯りを取った。
油の匂いが少し漂う。どうやら、まずはギンの寝床を確認させるつもりらしい。
「裏庭を見せるよ。銀猫様、そこの戸から出られるかい」
ギンはゆっくり立ち上がった。
戸口を通るとき、肩の毛が左右の柱をふわりと撫でる。
柱はみしりとも言わなかったが、僕の心臓は少し鳴った。




