第10話 ごはんの後の、不穏な匂い
ギンは、森の方角を向いたまま動かなくなった。
木鉢にはまだ端肉が残っている。
いつものギンなら、
食事を途中で放置するなど、よほどのことがない限りありえない。
つまり、今はその「よほどのこと」が起きている。
「どうした、ギン」
――いやな、におい。
その短い言葉と一緒に、
ただの不快感だけではない警戒の色が、ぞわりと頭の奥へ広がった。
女将も異変に気づいたらしい。
水差しを置いた手を止め、裏庭の窓へ目を向けた。
「……森かい」
「ギンが、嫌な匂いがすると」
そう言ってから、僕は自分の発言の奇妙さに気づいた。
初対面の宿屋で「猫が嫌な匂いと言っています」と真顔で報告する初老のオジサン。
現代の日本であれば、たぶん「気の毒な人扱い」で片づけられる。
だが、この世界では女将が真剣にうなずいた。
「銀猫様が言うなら、軽く見る話じゃないね。
ミナ、裏口を閉めな。客には今夜、外へ出ないよう伝えな」
ミナは、返事をするより早く厨房の奥へ駆けていった。
食堂の客たちも、女将の声でようやく異変に気づいたらしい。
木杯を置く音、椅子を引く音、小さく祈る声が、耳に届いた。
僕は煮込みの椀を持ったまま固まっていた。
異世界初日の夕飯くらい、心穏やかに食べさせてほしい。
こちらは死んだかもしれないオジサンで、現在の職業は銀猫様の下僕である。
少しくらい休憩時間があってもいいのではないか。
だが、窓の外のギンは、木鉢の前に座ったまま、森の方角へ耳を向けている。
だが、尻尾は低く垂れ、先だけがゆっくりと揺れていた。
――ちかい。
言葉足らずでも、拙くても、感覚が直接、伝わってくる。
「基準が分からないようで、非常に分かりやすいな」
そのとき、村のどこかで鐘が鳴った。
ひとつ、ふたつ、みっつ――食堂の空気がさらに冷えた。
女将が舌打ちした。
「夜番の鐘だよ。三つは門を閉める合図だ。
まだ襲撃じゃないが魔獣の気配だ。」
「まだ、という言葉が気になりますね」
「気にしておきな。ここでは、気にしすぎるくらいでちょうどいい」
女将の言葉が終わるか終わらないかのうちに、宿の扉が開いた。
夜風と一緒に入ってきたのは、
淡い金色の髪を揺らしたエルフィリア村長だった。
「銀猫様が森に注意を向けている、と聞きました」
登場が早い。
もっとも、二百年も生きていれば、
夜の不穏な匂いくらいで慌てないのかもしれない。
エルフィリアは裏庭の窓越しにギンを見て、静かに目を細めた。
ギンもまた、森から視線を外さず、ただ耳だけを彼女の方へ向ける。
何か、特別な絆や縁でもあるのだろうか、
そんな風にも思えるような二人の表情ではあった。
「森の境界が揺れています。
角兎が街道に出たのも、その影響でしょう。
……今夜、来るかもしれません」
「来る、というのは」
「群れです。
小型の魔獣なら、村の柵で防げます。
けれど、統率する個体がいるなら話は別です」
僕は椀の中の煮込みを見た。まだ半分残っている。
この異世界で神獣様となったギンに比べて、下僕に落ちぶれた僕の方は、
なんだか浅ましさが増したような気がして、少し落ち込んだ。




