第11話 銀猫さん、闇の森を睨む
そのとき、裏庭でギンがゆっくり立ち上がった。
銀色の毛並みが、月明かりを受けて淡く光る。
まだ残っていた肉には目もくれない。
――いく。
「いや、待て。食後すぐの運動は体に悪い」
言ってから、自分でも説得力のなさに気づいた。
僕は名残惜しく椀を置いた。塩気の強い煮込みは、まだ温かい。
エルフェリアが、ふいに僕を見た。
月明かりを受けた白銀の髪が、細い肩の上で静かに揺れている。
長い睫毛の下から向けられた澄んだ碧い瞳は、
祈るような切実さを宿していた。
彼女は一歩だけ近づき、僕に声を落とした。
「タローさん。あなたも一緒に来てください。
銀猫様のご意思を、私たちに伝えられるのはあなたです」
とんでもないほど美しい、こんな女性に潤んだ瞳で囁かれる、
そんな経験のないオジサンは赤面して、ドギマギしてしまう。
「通訳兼ボディーガードか」
――ちがう、げぼく。
「やかましいわ!」
エルフェリアが、僕の顔を見ながら怪訝そうな顔をした。
それはそうだ、僕とギンのやり取りは、他の人には分からない。
ん? 待てよ、
これがエルフェリアさんへの返答と誤解されたら困る!
「いや、これは……その、ギンがですね……」
などと、また適当なことを言ってしまった。
エルフェリアは、優しい微笑みで返してくれた。
幸い、ギンに向かって吠えていたので、誤解はなかったようで安心した。
この異世界特有のスピリチなんたらな世界観には、まだ慣れずに違和感が残る。
岩塩亭の扉を開けると、夜の冷たい空気が流れ込んできた。
ギンの尻尾が低く揺れている。あの尻尾が本気の合図なのだ。
村の向こう、黒い森の境目で、小さな赤い光がいくつも揺れている。
目だ。数え切れないほどの獣の目が、闇の底で息をひそめて村をうかがっていた。
そこでようやく、僕は自分の手が空であることに気づいた。
猫の通訳兼ボディーガードとして前に出るには、あまりにも装備が心もとない。
「何か、武器になるようなものはありませんか」
僕がそう言うと、門番の一人が戸惑いながら、
重厚な木剣を差し出してくれた。
握ってみると、頑丈で重みも十分ある。
古びていて、少し粗削りだが、手になじまないこともなかった。
メタボで増えた体重が加わって、打撃の重さは嫌でも跳ね上がる。
人間相手なら、そこそこ闘える部類に入る。
問題は、相手が人間ではないことだ。
木剣が魔獣とやらに通用するのか。そんなことは分からない。
分からないが、ここで椀の煮込みに未練を残しているだけでは、
下僕としても人間としても情けない。
得物を両手で握り、正眼に構えた。
懐かしい感覚が、柄を握る左の小指から肘へ、肩へと戻ってくる。
足先で土を探る。息を細く吐く。
若返った視界は、闇の端の動きまで拾っていた。
柵の隙間から、一匹が低く飛び出してきた。
大型犬くらいの大きさ、鋭い牙があり、漆黒の毛が逆立っている。
真正面から受ければ押し倒される。
そう判断した瞬間、僕の足は半歩だけ横へスライドしていた。
お腹のお肉も同時に揺れる。
「エイッ!」
木剣を振り下ろすというより、すれ違いざまに額を突く。
体重を乗せた一撃が、獣の進行方向を斜めにずらした。
乾いた音がして、獣は土を削りながら横へ転がった。
倒し切ったわけではない。
けれど、少なくとも相応のダメージは与えたようだ。
そのとき、青白い文字が夜の空気に浮かび上がった。
【イベント条件を確認しました】
【初防衛戦に参加:達成度一〇%】
【特典情報を開示します】
銀霜猫王ギンは、イベント達成ごとに神獣位階が一段上がります。
今の攻撃が獣に与えたダメージで、十パーセントの進捗率か。
達成すると、ギンは神獣様に一歩近づくというスペシャルな特典が得られる
「やはり、ギンは神獣様なんだな。」
――とうぜん。
これは、ますます頭が上がらない。
表示された文字の続きを読む。
【連動特典】
対象者:下僕一
イベント一件達成ごとに、肉体年齢を五歳若返らせます。
ただし外見の美形補正は含まれません。
「なに――⁉ 達成すると五歳若返る、だと!
これは思いもしなかった恩寵だ。」
――おんちょう。
「だけど、下僕表示はやめて、せめて名前で呼んでくれないかな!」
――げぼく。
イベント目標を達成すると、僕は五歳ずつ若返り、ギンは神様に近づく。
待遇差は大きいが、「目が見える」、「若返ることができる」なんて、
素晴らしすぎるシステムだ。
……さらに欲を言えば、下僕表示と顔面レベル据え置きも解消してほしいが。
いまは狼だか犬だかの獣との戦闘の真っ最中だった。ふざけている場合ではない。
ギンは闇の向こうを見据えたまま、ちらりともこちらを見なかった。
せめて一度くらい、同情のまばたきくらいしてほしかったが、
相棒の意識はもう、目の前の一人漫才より森の奥に向いている。
いや、ここはシリアスに行こう。
柵の向こうで、無数の目が低く沈んだ。退く気配はない。
むしろ、何かの合図を待つように、闇そのものが息をひそめている。




