第12話 銀猫さん、飼主を戦場に投入する
異世界で授かった“若返りの恩寵”の可能性に、ひとり浮かれていた
――その直後だった。
闇の中で、赤い目が一斉に動いた。
草を蹴る音が、ザザザッ、と低く広がる。
数は分からない。いや、分かりたくもない。
どうやら、恩寵云々に浮かれている場合ではないらしい。まずはこのイベントを無事に生き延び、達成しなければ、何も始まらない。
いま、僕の手元にあるのは訓練用の木剣一本。置いてきた煮込みへの未練。そして、飼い主である僕を、当然のように、自分の手下として戦力に組み込んでいる銀色の相棒だけだ。
――まえ。
ギンの指示が、頭の奥に落ちた。
僕は反射的に剣先を上げる。次の瞬間、柵の隙間から飛び込んできた獣の牙が、木剣に当たった。腕に衝撃が走る。重い。だが、受け止められないほどではない。
僕は半歩引き、木剣を構え直した。
「イヤーッ!」
気合と同時に木剣を横へ払う。
獣の前脚に当たった手応えがあり、相手の体勢が崩れた。
その横を、銀色の影が通り抜ける。
ぱしん、ではなかった。どん、と空気が振動した。
ギンの猫パンチを受けた獣が、木柵の外まで吹き飛ぶ。
「ギン、加減してるか?」
――してる。
本気なら村の柵ごと消し飛ぶのではないか。
僕は木剣を握り直し、神獣という名の重さを噛みしめた。
思えば、ウチに迎えた日に、掌に乗るほど小さかった仔猫が、まさかこんなに立派な神獣様になるなんて……。
嬉しくて、感慨深くて、戦いの最中なのに思わず涙腺が緩む。
門の向こうでは、村人たちが必死に動いていた。
門番が槍を構え、女将が客を押し戻し、エルフィリアは柵へ手をかざす。
淡い緑の光が、軋む木柵へ絡みついた。
「補強結界です。長くはもちません。
タローさん、銀猫様の動きを教えてください」
そんな高度な実況は難しいな、と思った瞬間、
――みぎたくさん。ひだり、くさい。
冗談のようなタイミングだったが、ギンの動きまで感じ取ることができる。
「右に多いそうです。左は……ヤバいのがいるみたいです」
それを聞いたエルフィリアの判断は速い。
右へ門番を走らせ、左へ自分の杖を向けた。
次の瞬間、左の闇から黒い塊が跳び出した。ほかより一回り大きい。
背に苔のようなものをまとい、牙の間から黒い涎を垂らしている。
エルフィリアの杖先が光る。
風が刃になって足元を裂き、獣の動きが止まる。
その一瞬に、ギンが地面を蹴った。
月明かりの下、銀色の巨体が弧を描く。
着地と同時に、前脚が黒い獣の頭を押さえた。
音はない。ただ、獣だけがぴたりと止まる。
――すこし、つよい。
「こいつは、かなりヤバい感じだな」
――にごってる。
僕がそのまま伝えると、エルフィリアの表情が変わった。
「瘴気です。普通の魔獣化ではありません。
森の奥で、何かが獣を汚しています」
瘴気。いかにも異世界らしい不穏な単語が出てきた。
できれば観光案内のあとにしてほしかった。
考える暇はなかった。右の柵に、獣が同時に三匹取りつく。
僕は走る。足は重い。腹も揺れる。なのに、息は不思議と続いた。
一匹目の鼻面を打つ。二匹目を受け流す。三匹目の腹へ、反射的に膝が入った。
若い体ではないはずなのに、体が先に動く。
「タローさん、右を!」
エルフィリアの声で振り向き、木剣を振り下ろす。
手応え。獣が転がる。直後、足元に青白い文字が浮いた。
【初防衛戦に参加:達成度四〇%】
「増えてる。いや、喜んでいい進捗なのか、これは」
――ごほうび。
ギンが黒い獣を押さえたまま、こちらを見た。
月明かりを受けた銀色の毛並みが、さっきよりもほんの少し、淡く輝いているように見える。
「まだ四割だぞ。業績評価なら要改善だ」
――もっと。
もっと頑張れ、と主から叱咤激励だ。
だが、まだ木剣は下ろせない。
柵の向こうで、まだ目が揺れている。
右に二匹。左に一匹。さらに奥に、動かない大きな影がひとつ。
――おく、おやだま。
背筋が冷えた。奥の何かは、ただ突っ込んでくる獣とは違う。
村人の位置、結界、門番の怯え、そしてギンの力まで測っている。
「統率個体、というやつですか?」
「おそらく、この狼の群れを率いている魔獣です」
エルフィリアの声は落ち着いていたが、杖を握る指には力が入っていた。
そのとき、柵に取りついた魔獣が横から吹き飛んだ。
ギンではない。若い門番だった。
槍を両手で構え、足を震わせながら、それでも前に出ている。
「銀猫様だけに任せるわけには、いかないだろ!」
その声に、ほかの門番たちも続いた。槍先は震えている。だが、震えたまま前に出るなら、それはもう十分に勇士だ。
こういう青臭さ、オジサンは嫌いじゃないですよ。
「右の二匹、足を止めます。仕留めるのはお願いします!」
返事を待たずに走る。
一匹目の鼻面を打ち、反動で二匹目の前脚を払う。きれいな剣さばきではない。だが、足を止めるだけなら十分だった。
門番の槍が続いた。ギンほど派手ではない。それでも、人間の手で村を守ろうという意志があった。
その直後、青白い文字が視界の端に浮かぶ。




