第13話 銀猫さん、瘴気狼を討伐する
【初防衛戦に参加:達成度六〇%】
六〇%。半分は超えた。
だが、残り四〇%分の厄介事が残っているという意味でもある。
その予感は、すぐに当たった。
森の奥で、低い唸り声が響いた。
獣の群れが、いっせいに動きを止める。
見えない首輪を引かれたように、同じ方向へ顔を向けた。
闇をまとった魔獣が、迫ってくる。
漆黒の輪郭が、夜の闇から剥がれて姿を現した。
子どもなら見上げるほどの大きさ。
狼に似ているが、頭には曲がった角が二本。口元からは黒い霧が漏れていた。
「あれが、統率個体……」
エルフィリアの声が、わずかに硬くなる。
「瘴気狼・グリムウルです。普通なら、この村の柵で防げる相手ではありません」
「つまり、普通じゃない何かに期待するしかない、と」
「ええ。銀猫様がいらっしゃいます」
その銀猫様は、低く身を沈めた構え。尻尾はまっすぐ、耳は前。
家で段ボール爪とぎに乗っていた姿とは別物だった。
――あれ、まずい。
「ギンが、奴はおいしくないって言っています」
「内容が具体的で助かりますね」
非常時でも皮肉を忘れない二百歳の美女である。
瘴気狼が吠えた。夜そのものが軋むような音だった。
黒い霧が地面を這い、柵の根元へまとわりつく。
エルフィリアの結界が淡く震えた。
「下がらないでください!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
リソース削減会議でも、ここまでの声は出なかったと思う。
少なくとも、あの場に黒い霧が漂ったりはしていなかった。
瘴気狼が、ゆっくりと前脚を上げた。
狙いは門ではない。柵でもない。結界を張るエルフィリアだった。
――そんちょ、さき。
「エルフィリアさんを狙っています!」
先の先を取り、自ら打ち込みに行く。
木剣一本で瘴気狼を止められるなら、
この世界には勇者の聖剣なんとかブレードなど必要ない。
だが、相手は狼の群れを率いる魔獣・グリムウル。
どう考えても保険適用外の状況だった。
足は前に出た。村の人たち。子どもたち。女将。エルフィリア。
そして、当然のように僕を戦場へ連れ出す銀色の相棒が、目の前にいた。
「ギン、止めるだけでいい。合わせてくれ!」
――よい。
許可が出た。僕は木剣を握り直し、瘴気狼の正面から半歩ずれて踏み込む。
無心で木剣を振り下ろす。硬い。濡れた丸太を叩いたような手応えが、骨まで響いた。
だが、ほんの一瞬だけ、瘴気狼の足は止まった。その隙に、ギンが横から入る。
銀色の巨体が低く沈み、尻尾が鞭のようにしなる。
次の瞬間、肩から体ごと瘴気狼へぶつかった。
どん、という重い音がして、黒い巨体が横へずれる。
柵を崩しかけていた霧が一瞬乱れ、エルフィリアの結界が緑の光を取り戻した。
「今です!」
エルフィリアの杖先から光の鎖が伸びる。
瘴気狼の脚に巻きつき、地面へ縫い留めた。
狼が吠え、黒い霧が激しく波打つ。さすがは二百歳の美魔女だ。
【初防衛戦に参加:達成度八〇%】
「八割。ここまで来たら、期末評価としては悪くない」
――まだ。
ギンの言葉どおりだった。
瘴気狼は縛られた脚を無理やり引き抜き、こちらへ顔を向ける。
赤く濁った目が、結界を支えるエルフィリアと、出鼻を挫いた僕とを順に測った。
魔獣のくせに、ずいぶん合理的だ。
瘴気狼が地面を蹴る。
黒い霧が尾を引き、夜気が低く唸った。
僕は半歩だけ横へずれる。逃げるためではない。ギンの通り道を空けるためだ。
「ギン、僕が引きつける。おまえは横から頼む」
――げぼく、つかえる。
「それは、どうも」
軽口の直後、牙が迫った。
僕は木剣を斜めに滑らせ、受けずに流す。
若い頃の鍛錬が、五十代の体の奥から勝手に出てきた。
それでも衝撃は重い。肩から背中へ痛みが走り、足が土を削る。
踏み外せば終わりだ。
その一歩を、ギンが埋めた。
銀色の巨体が脇腹へ滑り込む。前脚が振られ、空気が裂けた。
猫パンチというより、神獣認可済みの折檻である。
瘴気狼が横へ吹き飛び、光の鎖が再び脚を捕らえた。
エルフィリアが低く唱える。木柵の緑の光が蔦のように伸び、狼の胴を縛った。
「今なら押さえられます! ですが、浄化までは――」
――ひ、だす。
ギンの声が短く届く。僕は右手を見た。
草原で出した、爪の先ほどの情けない火。あれで何ができる。
そう思った瞬間、ギンがこちらを見た。
――きよめ。
それだけで、十分だった。
僕は木剣を地面に突き立て、右手を前へ出した。
ギンの頭を撫でるときの温かさを思い出す。
誰かを傷つけるためではなく、そこにいてくれるものを守るための熱を。
「火!」
今度の火は、爪の先ほどではなかった。
手のひらの上でサッカーボール大の火球が灯る。
黒い霧に触れた瞬間、じゅう、と闇が薄くなった。
「浄化の火……?」
エルフィリアの驚いた声を聞きながら、僕は火球を瘴気狼へ向けた。
炎は静かに揺れ、黒い霧を少しずつ削っていく。
狼が暴れ、光の鎖が悲鳴のように軋む。
「ギン!」
――まかせて。
初めて聞く種類の返事だった。偉そうで、短く、けれど頼もしい。
ギンが跳ぶ。月光を受けた銀色の体が、黒い霧を越えた。
前脚が、瘴気狼の額へ静かに置かれる。
ぱしん。
今度の音は、家で聞いた猫パンチに似ていた。
黒い霧だけを叩き落とすような、軽く、正確で、やけに猫らしい一撃。
瘴気狼・グリムウルの体から、黒い霧がほどけていく。
赤かった目が、少しずつ普通の獣の色へ戻る。
やがて狼は力を失い、地面に横たわった。
青白い文字が、夜の空気に浮かび上がる。
【初防衛戦に参加:達成度一〇〇%】
【イベント達成】
村の初防衛戦を完了しました。
(瘴気狼・魔獣グリムウルの討伐。狼の群れを撃退)
報酬を付与します。
【報酬】
銀霜猫王ギン:神獣位階が上昇しました。
新規権能候補:浄化の猫パンチ。
備考:本人の機嫌により発動率が変動します。
「発動は、気分次第なのか」
――そういうもの。
【連動報酬】
銀霜猫王の下僕一:肉体年齢が五歳若返りました。
現在の肉体年齢:五十一歳相当。
なお、外見の美形補正はありません。
「だから、そこは毎回念押ししなくていいって」
肩の痛みが、すっと引いていく。膝も背中も少し軽い。
劇的な変身ではない。だが確かに、体の内側で何かが巻き戻った。
心なしか、白髪も減った気がする。
「おぉ、異世界の奇跡、ありがたや!」
ギンは何事もなかったように尻尾を立て、倒れた瘴気狼を一瞥する。
統率を失った小型の魔獣たちは、蜘蛛の子を散らすように森へ消えた。
遅れて歓声が上がった。
門兵たちはその場にへたり込み、女将は胸をなで下ろし、エルフィリアは杖を下ろして静かに頭を下げる。
「ありがとうございました、銀猫様。そして、タローさん」
「僕はほとんど囮でしたけどね」
――やくにたつ。
ギンがそう言った。
たぶん褒めている。僕はその曖昧な称賛をありがたく頂戴した。
すると、ギンはすべてが終わったと言わんばかりに、岩塩亭の方へ向き直った。
――ごはん、つづき。
村は救われた。僕は五歳若返った。ギンは神獣へ一歩近づいた。
だが銀猫様にとって、それらはすべて後回しだった。
最重要案件は、食べ残した端肉である。
そう思って岩塩亭へ戻りかけた、そのときだった。
倒れた瘴気狼の方で、何かがかすかに動いた。




