第14話 瘴気狼・グリムウル、まさかのポンタだった
倒れた瘴気狼・グリムウルの体から、まだ薄い黒霧がふわふわと漏れていた。
それは煙のように空へ昇るのではなく、むしろ毛皮の表面を撫でるようにほどけ、夜風に溶けていく。
「まだ瘴気が残っているんですか?」
「いえ、これは……外殻が剥がれているように見えます」
エルフィリアが不思議そうにつぶやく。
その横でギンは、岩塩亭方面へ向けかけていた足を止め、非常に不満そうに耳を伏せた。
たぶん「ごはんの前に追加イベントとは聞いていない」と言っている顔だ。
黒い巨体が、少しずつ縮んでいく。
曲がった角がぽろりと砂のように崩れ、
牙は小さくなり、狼の長い脚は、見覚えのある短めの脚になった。
「……短め?」
自分で言って、胸の奥が妙にざわついた。
狼だったものは、やがて一匹の柴犬の姿になった。
茶色の毛並み。白い腹。くるんと巻いた尻尾。耳の形。
寝ているとき、前脚だけ妙に行儀よくそろえる癖。
脳の奥で、十年以上前の引き出しが一気に開いた。
ペットショップで「ミニ柴です」と言われて買ったのに、
成犬になったら近所の柴犬代表くらい堂々と育った、あいつ。
散歩中に必ず同じ電柱で長考し、風呂と動物病院だけはこの世の終わりみたいな顔をして拒否した、あいつ。
十五歳で眠るように旅立った、昔の飼い犬。
「……ポンタ?」
声が、思ったより震えた。
瘴気狼、まさかのポンタだった。
目の前の柴犬は、ぐったり横たわったまま動かない。
さっきまで村を滅ぼしかけていた魔獣とは思えないほど、
見事なへそ天未遂姿勢である。いや、感動の再会にしては姿勢がだらしない。
「ポンタ。おい、ポンタ。僕だ、タローだ」
返事はない。
胸の奥がぎゅっと縮む。
異世界に来てから、驚きにも理不尽にもだいぶ耐性がついたつもりだった。
だが、亡くしたはずの家族が目の前で動かないというのは、さすがに別枠だった。
「ギン、何とかならないか」
――しかたない。
ギンは心底面倒そうに柴犬へ近づくと、右前脚を上げた。
神獣位階が上昇したばかりの銀猫様による、新規権能候補。
浄化の猫パンチ。
ぱし。
あまりに軽い音だった。
僕の心配と感動と十五年分の思い出が、
まとめて猫の前脚一本ぶんの軽さで処理された。
「いてぇ……」
柴犬が、しゃべった。
村人たちが一斉に後ずさる。エルフィリアまで杖を構え直した。
僕だけが、涙目のまま固まっていた。
柴犬はゆっくり頭を上げ、ぶるぶると耳を震わせた。
そして、僕を見た。
「おう、御主人じゃねえか!」
感動が、変な角度でひっくり返った。
「……ポンタって、そんなキャラだったか?」
「あ? 昔からこんなもんだろ。心の中ではよ」
「心の中の口調、だいぶ荒かったんだな!」
「こちとら江戸っ子よ!」
ポンタは前脚で頭をかこうとして、途中で自分の体を見下ろした。
「ん? どこだここ。病院か? いや、土くせぇな。つうか俺、最後に御主人の手ぇ舐めて……それで眠くなって……」
言葉がそこで止まった。ポンタはしばらく僕を見上げ、鼻をひくひくさせた。
「御主人、老けたな」
「十五年ぶりの再会で、最初にそれを言うのか!」
――ごしゅじん、さっき五さいわかがえった。
「え、若返ってそれか?」
ポンタとギンの声が重なった。
やめてほしい。
異世界で再会した愛犬と神獣猫から同時に外見評価を受ける五十一歳相当男性の気持ちを、誰か鑑みてほしい。
それでも、ポンタが立ち上がろうとしてよろけた瞬間、僕は反射的に抱き留めていた。
昔より軽い。いや、記憶の中の重さと、腕の中の温かさが重なって、よくわからなくなった。
「ポンタ……本当に、おまえなのか」
「おう。腹減った」
涙が引っ込んだ。
「……そうだった。おまえも、感動より先に飯だった」
「まず飯だろ。水もいる。あと、あの硬いガムみてぇなやつ」
「牛皮ガムか。異世界にあるかな……」
ギンが僕の腕の中のポンタをじっと見た。ポンタもギンを見た。
猫と犬。銀猫神獣と、元瘴気狼で元飼い犬。
場の空気が、急に動物病院の待合室みたいな緊張感になった。
――いぬ、くさい。
「てめぇ、猫のくせに言うじゃねぇか」
「やめろ。十五年ぶりの再会を、犬猫抗争の開戦日にするな」
村人たちは、救われた村の門前で、銀の神獣猫としゃべる柴犬と、それを抱えて半泣き半ツッコミしている中年男を見守っていた。
誰も状況を説明できない。
ただ一つ確かなのは、岩塩亭の夕飯が、
これまで以上に騒がしくなるということだった。
そう思った矢先、腕の中のポンタが、ふいにぐらりと頭を落とした。
「おい、ポンタ?」
「いや、まだ本調子じゃなくて……」
そうぼやいた直後、ポンタは僕の腕の中で、がくんと力を失った。
さっきまで「腹減った」だの「美女」だのと言っていたくせに、急に電池切れのぬいぐるみみたいになる。
エルフィリアがすぐに膝をつき、ポンタの額に手をかざした。
淡い緑の光が、毛並みを撫でる。
ポンタは目だけを半分開けて「お、なんかいい匂いの手……」とつぶやいた。
「黙って診てもらえ」
「……瘴気にさらされていた時間が、かなり長いようです。
浄化で目を覚ましたとはいえ、体の奥に受けた傷はすぐには抜けません」
エルフィリアの表情は穏やかだったが、声は真剣だった。
さっきまで村を襲っていた魔獣の正体が、僕の元飼い犬という時点で、こちらの情緒は十分に限界を超えている。
そこへさらに「要療養」と来た。
「しばらく、私の家で預かりましょう。
村に残っている薬草と回復の術なら、少しずつですが癒やせるはずです」
「え、いいんですか? でも、村長さんにそこまで迷惑を」
「迷惑ではありません。救われたのは、こちらですから」
その言葉に胸が熱くなりかけたところで、ポンタが薄目を開けた。
「いやぁ、まさか異世界でこんな美女に看病してもらえるとはな。
柴犬冥利に尽きるぜ」
「御主人のことも少しは気にしろ。」
「御主人は御主人で丈夫そうだろ。五歳若返ったらしいし」
「そこを根拠にするな」
本当にこいつは忠義篤い犬だったのだろうか。
いや、朝晩の散歩、雨でも嵐でも、欠かすことは許してはくれなかった。
ルートの主導権も握らせてもらった覚えがない。
口ではご主人と言いながら、やはり僕は、犬にも下僕と思われていたのか?
その可能性は否定できない。
ギンはポンタを見下ろし、鼻先でふんと息を吐いた。
――よわい。
「うるせぇ、猫。全快したら勝負だからな」
――そのころには、たぶんわすれている。
「忘れんなよ!」
僕はため息をつき、エルフィリアに頭を下げた。
「すみません。しばらく、ポンタをお願いします」
「はい。大切にお預かりします」
そうして、十五年ぶりに再会した愛犬は、再会から十分もしないうちに、村長宅で美女に看病されることになった。
僕よりだいぶ待遇がいい。
ポンタがエルフィリアに抱えられて遠ざかっていく。
僕はしばらくその背中を見送り、腕の中に残った温かさだけを確かめていた。
その温かさを抱えたまま、僕は岩塩亭へ戻った。
するとギンの意識はもう、村の危機でも再会の奇跡でもなく、食べかけの夕飯へ完全に戻っていた。




