第15話 銀猫さん、浄化の儀式
岩塩亭へ戻るなり、ギンは迷いなく裏庭の木鉢へ直行した。
瘴気狼の群れを退けた。
統率個体も浄化した。
その正体は十五年ぶりに再会した元愛犬だった。
普通なら、勝利と再会の余韻に浸る場面である。
――まだ、たべる。
「自分の中の優先順位、ブレずに徹底しているんだな」
ギンは黙々と食事を再開した。
骨を噛む小さな音が、夜の裏庭に戻る。懐かしくも平和な音だった。
それを聞いて、僕はようやく膝から力が抜けた。
女将が濡れた布を持ってきてくれた。
腕や頬の土を拭うと、肌の感触がわずかに違う。
鏡があれば二、三度は確認したくなる程度には変化があった。
「本当に、五歳若返ったのか」
老人というにはまだ早い。だが、中年と言い張るのもおこがましい。
つまり、オジサンが妥当だ。とはいえ体は少し軽い。腰も楽になった。
何より、木柵の向こうまで見渡せる視界が、今も冗談みたいにクリアだった。
食堂では、客たちが僕と裏庭のギンを交互に見ていた。
まだ怯えは残っている。けれどそれ以上に、安堵の空気に満ちている。
門番の若い男が、ぎこちなく頭を下げた。
「助かったよ。あんたと銀猫様がいなかったら、木柵は破られてた」
「たまたまです。ほとんどギンとエルフィリアさんのおかげですよ」
「それでも前に出て戦った。旅人なのに、村のために戦ってくれた」
面と向かって礼を言われると、オジサンは照れて口数が減る。
震える手で槍を握っていた村の若者の本音が、妙に胸に染みた。
場が少し落ち着いたころ、
木鉢の端肉を片づけ終えたギンが、ふいに裏庭の隅へ向かった。
足取りは妙に厳かだった。肉を食べ終えた猫の移動にしては、明らかに重みがある。
――せいしゅく。
「静粛に? ここ、宿屋の裏庭だぞ。神殿でも祭壇でもないぞ」
ギンは答えない。ただ一点を凝視している。
まるで古代の封印を解く神官みたいな顔で、銀色の巨体をぴたりと止めた。
僕は一拍置いて、悟った。
「ああ、トイレか」
――ちがう、ぎしき。
「言い張るな。名前を変えても実態は変わらないからな」
ギンは動かない。
巨大な体を微動だにさせず、ただ一点を見つめたまま、神獣らしからぬ“猫の儀式”を粛々と遂行していた。
そして、裏庭に細い音が広がる。
「しゃーーー……」
妙に親しみ深い音だった。しかも、ちょっと可愛い。
そう感じた自分を、あとで反省したい。
頭の中で壮麗な聖歌でも流れていたなら、ここで確実に音程が外れた。
「そんな真顔ですることじゃないだろ
……こっちが姿勢を正しそうになるだろうが」
やがて、ギンは後ろ足をそろえ、ざしゅ、ざしゅ、と裏庭の土をかき始めた。
――うまった。
本人は、ものすごく達成感のある顔をしている。
「埋まった、じゃない。だめでしょ、他人様の敷地で。しかも宿屋だぞ」
ギンは一度だけこちらを見た。
『細部にこだわるな』と言わんばかりの目だった。
いや、細部ではない。
――うまった。
本人の中では完了したらしい。
神獣様の基準は、やはり人間とは違う。
違いすぎて、こちらの常識が置いていかれる。
次の瞬間、ギンの尻尾の先がふわりと光り、裏庭の隅に小さな虹がかかった。
「おまえ、事後に虹が出るのか……演出過多だろ」
しかも、ちょっと神々しい。
浄化の猫パンチ。浄化の火。そして、浄化の粗相。
権能の体系が、だんだん生活密着型になってきた。
――きよめ。
「浄化って、そういう方向性なの? 聖なる概念、広すぎない?」
やがて虹は消えた。
裏庭なのに、脳内だけ無駄に荘厳だったことが余計に腹立たしい。
ギンは満足げに尻尾をピンッと立て、任務完了とでも言いたげに木鉢へ戻っていった。
僕はスコップを借りに行くことにした。
ただ、その仕事はスコップ一本で片づくほど単純ではなかった。
埋められた土の上で、さっき消えたはずの虹の名残が、まだかすかに揺れていたのだ。
嫌な予感がした。
こういう光り方をするものは、この世界ではたいてい通知か、事件か、その両方である。




