第16話 銀猫様、裏庭にバフを撒く
嫌な予感は、すぐに当たった。
戦闘後の緊張感がようやく裏庭の片隅で溶けかけたころ、
神獣様の一連の排泄行動は、なぜか平和のまま終わってくれなかった。
しばらくして、裏庭へ水桶を取りに来た村人が、
土の上に残る虹色の揺らぎを見て硬直した。
指先だけを震わせながら、ゆっくりと裏庭の隅を指さす。
「銀猫様が、裏庭に聖なる泉をお作りになった?」
「違います。泉ではありません。もっと生活に密着したものです……」
言い方を選んだつもりだったが、村人の顔色はむしろ悪くなった。
どうやら“生活に密着した聖なる何か”という表現が、村人の信仰心に余計な負荷をかけたらしい。
そこへ女将まで顔を出した。
「なんだい、裏庭でまた何かあったのかい」
「いえ、ギンが用を足してまして」
「用を足して虹を出す猫なんて、四十年宿をやってても初めてだよ」
まったくその通りである。
僕だって半世紀以上生きてきて、初めて見た。こんな話は聞いたこともない。
――よい。
「よくないわ! 宿の裏庭だよ、私有地だから!」
だが、事件はそこで終わらなかった。
裏庭の隅から、淡い光がぽうっと立ち上がり、土の上に青白い文字を描いた。
【浄化済み個体の排泄を確認】
周辺土壌の瘴気濃度が低下しました。
副次効果:裏庭の薬草成長率が一時的に上昇します。
【追加通知】
裏庭に一時バフ『銀猫様の恵み』が付与されました。
注意:名称変更を希望する場合は、管理者権限を持つ神獣本人の同意が必要です。
「個体の排泄……おっきい方もしてたのか」
ギンは胸を張った。
かつて、トイレが上手にできて、立派なものをするたびに
「偉かったね」「立派だね」と褒め散らかしていたのは確かである。
だが、いまとなっては、褒めるべきなのか、注意すべきなのか、
飼い主未満に落ちぶれた下僕には判断が難しい。
もし、巨大化したギンの身体に比例するのだとしたら
……今、いちばん知りたくない情報だった。
「名称変更だけは今すぐ通したい。せめて『土壌浄化効果』にしてくれ」
女将はしばらく黙っていたが、やがて裏庭の薬草畑へ目を向けた。
「……明日のスープ、よく効くかもしれないねえ」
「効能の出どころを聞いたら、僕は飲む勇気を失います」
ミナも、真剣な顔でうなずいた。
「この件、村長に報告したほうがいいですよね」
村人は真面目にうなずき、腰の小さな板に何かを書きつけ始めた。
やめてほしい。今この瞬間、村の公式記録に、僕の関わりたくない単語が刻まれている。
「報告書の件名、どうするんですか。『大きい方もした』ですか」
――せいかい。
「正式件名にすんな! せめて末尾に小さく、備考扱いで」
世界も本人も正しいと言うなら、たぶん正しいのだろう。
僕だけが、社会人として最後の抵抗をしている。
結局、裏庭の騒ぎは女将の「あとで詳しく聞くよ」の一声で強制終了となり、僕は逃げるように岩塩亭の奥へ案内された。
奥の小部屋では、エルフィリアがすでに丸机の上へ村周辺の地図を広げていた。森、街道、小川、そして南の町。
裏庭の珍事で笑っていられるほど、事態は軽くないらしい。
「瘴気は、森の奥だけの問題ではなくなっています」
エルフィリアは地図の北側、黒い線で囲まれた森の一角を指した。
「本来なら、あそこから魔獣はほとんど出ません。
けれど最近、森の古い境界が弱まっています」
「原因は分かっているんですか」
「まだです。だから外へ知らせる必要があります。
南へ半日ほどの町、レノルという町に、冒険者ギルドの支部があります」
冒険者ギルド……テンプレが来た。
確か、異世界の冒険者窓口みたいなものだったか。
名称は知っていたが、自分がそこへ行くことになるとは夢にも思わなかった。
「そこへ、僕らが報告に行くんですね?」
「できればお願いします。
銀猫様と意思を交わせるタローさんなら、異変を正確に伝えられます。
銀猫様が同行されるなら、ギルドも無視はできないでしょう」
――ごはんしだい。
「ごはんは、おいしいのかなって気にしてます」
エルフィリアは少しだけ笑った。
「レノルなら宿も市場もあります。銀猫様のお口に合うものも、きっと見つかるでしょう」
――よい、まち。
まだ行ってもいない町の評価が、もう確定した。
僕は地図を見下ろした。村から南へ伸びる一本の線。
その先に、レノルという町がある。
「明日の朝には、出るんですよね」
自分で言って、胸の奥がざらついた。
村長宅では、十五年ぶりに再会したポンタが眠っている。
死んだはずの犬を見つけたその翌日に、僕はその犬を置いて村を出るらしい。
冷静に考えなくても、だいぶ無茶な筋書きだった。
「ポンタを連れていくのは、無理でしょうか」
「今は休ませるべきです。
瘴気にさらされた体で長く移動すれば、回復が遅れるかもしれません」
エルフィリアの声は静かだった。
だからこそ、反論できなかった。
ポンタがあの姿になった理由を知るためにも、
瘴気の異変を放っておくわけにはいかない。
とても眠れる気分ではなかった。
そう思っていたのに、裏庭の庇の下で丸くなったギンが、あっという間に寝息を立てはじめた。前足を畳み、尻尾を体に添える。その寝姿は、異世界に来る前と何ひとつ変わらなかった。
見知らぬ世界と、僕の知っている日常とを、細い糸でつないでいるみたいだった。
「ギン。明日はレノルへ行くぞ」
――ごはん。
「そこは、まず目的を確認しろ」
口ではそう突っ込みながら、まぶたは重くなっていく。
疲れが、泥のように体の底へ沈んでいく。
草原で目を覚ましてから、僕の神経は一度も休んでいなかった。
狼の群れ。瘴気をまとう魔獣。青白い通知。神獣扱いされる元・飼い猫。
そして、死んだはずのポンタとの再会。
意識がほどけかけたそのとき、ふと昔の自分が浮かんだ。
剣と魔法の世界に胸を躍らせ、仮面ライダーやウルトラマンに憧れ、
「正義は勝つもの」と、疑いもなく信じていた頃の幼かった自分だ。
大人になるにつれて、空想力は錆びつき、そのまっすぐな信条は少しずつ擦り切れた。
それなのに今、僕は本物の剣と魔法の世界で、銀色の神獣猫とともに見知らぬ町へ向かおうとしている。
まだ見ぬレノルの鐘が、夢の底で、遠く、遠く――僕を呼ぶように鳴り始めていた。




