第17話 銀猫さん、レノルの町へ
翌朝、岩塩亭の二階で目を覚ますと、窓の外はもう白んでいた。
板壁の向こうからは、厨房で鍋をかき回す音と、焼けた黒パンの匂いが上がってくる。
初めて訪れたこの村で見たもの、聞いたもの、嗅いだ匂い、頬に触れた夜気。
どれも夢にしてはあまりにリアルで、生々しい息づかいは、かつて画面越しに眺めていたバーチャルな世界観を、簡単に超えていた。
僕は、たしかに一度、死んだのだと思う。
けれど案外、人の一生というものは、そこでぷつりと終わるだけではないのかもしれない。場所を変え、時間を超え、思いがけない続きへ滑り込むものなのかもしれない。
ならば、これまでの常識にしがみついて怯えるより、この異世界の理不尽さも優しさも、丸ごと受け入れてみようと思った。
身支度を済ませて階段を下りると、ギンはすでに玄関先で待っていた。
出発準備、と言っても、庇の下で前脚をそろえ、荷物ひとつ持たずにこちらを見ているだけだ。
僕の姿を見るなり、ギンは大きなあくびをした。
生前から見慣れた、こちらの都合を一切くまない朝の顔である。
その金色の目は、明らかに「遅い」と言っていた。
たぶん次に来る要求も、僕には分かっている。もっと腹に直結したやつだ。
「おはよう、くらい言ってくれてもいいんじゃないかな」
ギンは、おもむろに右手を挙げた。
「ごあん!」
いつものデモンストレーションである。
「それは、挨拶ではなく要求だ」
実にギンらしい、旅立ちの朝だった。
朝食は黒パンと豆の煮込み、干し肉。僕の分は木皿一枚。
ギンの分は、洗い桶ほどの木鉢にたっぷりだった。
「銀猫様は、よく食べるねえ」
女将は呆れたように、それでいてどこか楽しそうに言った。
ギンは返事の代わりに、木鉢の中身を一口ずつ丁寧に減らしていく。
――ここ、すき。
「宿ランク、最高評価が出ました!」
「そいつは光栄だ。次に来るときは、もっと大きい鉢を用意しておくよ」
その一言で、ギンの耳がぴんと立った。
どうやらこの宿は、本人の中で次回予約まで完了したらしい。
村長のエルフィリアが、村の門まで見送りに来てくれた。朝から素晴らしい目の保養である。
その腕の中には、門まで抱きかかえられて連れてこられたポンタがいた。
当の本人は美女の腕に収まり、まんざらでもない――というか、むしろうっとりしている。
――ずるい。
「ずるかねえよ。こちとら名誉の負傷兵だ。」
ポンタは得意げに鼻を鳴らし、エルフィリアの腕の中でくたっと身体を預けた。
「いや、お前は村を襲う瘴気狼だったからね。
名誉とか、どの口がいうのかな」
尻尾だけはぶんぶん振っているが、
鼻先の色はまだ少し悪く、迫力はまるでなかった。
瘴気の影響もあり、しばらくはエルフィリアの監視と看護を受ける。
――ねてろ。
「留守番くらい、任せとけ」
胸を張ってみせたものの、その声には明らかに無理が混じっていた。
エルフィリアの手には、レノルのギルドへ渡す封書がある。
封蝋には、小さな葉の紋様が押されていた。
「これを受付に見せてください。
昨夜の瘴気狼の件と、銀猫様のことを書いてあります。
身分証も、ギルドで発行できるはずです」
――しんよう。
「うん。ようやく社会的自立の入口が見えてきたよ」
エルフィリアに礼を告げ、僕たちは村を出た。
門をくぐる前に振り返ると、
岩塩亭の煙突から細い煙が上がっていた。
たった一晩の滞在だったのに、あの灯が少しだけ名残惜しく見える。
街道は森沿いに南へ伸びている。
朝の空気は澄んでいたが、昨夜の黒い霧を思い出すと、のんびり旅情に浸る気にはなれない。
飼い猫だったギンは浄化の力をもつ“神獣”と呼ばれ、
僕とは言葉を介さずに意思を交わせるようになった。
失っていたはずの視力は戻り、
テレワークで鈍っていた身体も、いくらか若返っている。
十五年前に死に別れた飼い犬は、
瘴気狼・グリムウルとの戦いの果てに浄化され、
江戸弁を話す奇妙な犬として正体を現し、僕の前に戻ってきた。
非常識というべきか、奇天烈というべきか。
少なくともこの世界では、これまで僕が信じていた常識も法則も、そのままでは通用しない。
まあ、何でもいいか……。
考えすぎても腹は減るし、ギンは待ってくれない。




