第5話 銀猫さん、モフモフで魅了する
やがて、川から水をひいた濠と木柵に囲まれた、
わらぶき屋根の質素な集落が見えてきた。
煙はその向こうから上がっている。
橋を渡ると、簡素な門があった。
丸太を組み、左右に見張り台らしき足場を付けた、
いかにも手作りの入口である。
槍を手にした若い門番が二人立っている。
ただ、槍先は錆び、柄は欠けていた。
身に着けているのは、古びた厚手の革の胸当てだけ。装備は貧相だ。
僕たちを案内してくれたロッツが、門番たちに向かって声を張った。
「銀猫様だ。角兎も仕留めてる」
門番二人の顔色が、同時に変わった。
片方は槍を構え、もう片方は構えようとして、足元の石につまずきかけた。
「そ、その魔獣を、村に入れるつもりか!」
「魔獣ではなく、僕の飼い猫です」
僕は反射的に訂正した。
だが、言いながら少しだけ自信が揺らぐ。
ギンが主人で、こっちが下僕だった。
しかもこの世界での種族名は、銀霜猫王。
なにせこの大きさだ。猫と言い切ったことに、後悔が残る。
ギンはそんな僕の迷いなどお構いなしに、門番の前でゆっくり伏せた。
ふわりと広がる銀色の毛並み。大きな前脚。少し不機嫌そうな丸い目。
ギンの足が、そこでぴたりと止まった。
「ごあん」
村に着く前から、目的は揺るがない。
その言葉、いや、鳴き声に、
門番二人の顔がこわばり、槍先がわずかに震えた。
その一方で、門の内側からは、小さな顔がいくつも覗いていた。
――子どもたちだ。
わらぶき屋根の陰や木柵の隙間から、小さな顔がいくつも覗いていた。
好奇心を隠す気は、まるでない。
「でっかい猫だ!」
「銀色だ!」
「モフモフしてる!」
大人たちの顔から血の気が引いていくのとは対照的に、
子どもたちの目はきらきらと輝いていた。
リスク回避という考えは、どうやら年齢とともに育つらしい。
「近づくな!」
門番の一人が慌てて叫んだ。
その声に驚いたのか、ギンの耳がぴくりと動く。
――うるさい。
頭の奥に届いた不満に、僕は慌ててギンの前へ半歩出た。
「すみません、刺激しないでください。この子、少し機嫌に敏感でして」
「少し……で済むのか、それは」
門番の問いは、もっともだった。
そのとき、子どもたちの中でいちばん小さな子が、
木柵の隙間からそっと手を伸ばした。
「さわってもいい?」
門番たちが同時に息を呑む。
ロッツは桶を抱えたまま硬直し、僕もまた固まった。
唯一、ギンだけがゆっくりとその子を見下ろしている。
――ちいさい。
ギンの感想はそれだけだった。警戒でも威嚇でもない。
ただ、事実確認である。
やがてギンは、ほんの少しだけ首を傾けた。
子どもの手が、銀色の頬の毛にそっと触れる。
「わあ……」
子どもの声に、門の内側の空気が少しだけ変わった。
恐怖一色だった大人たちの視線に、わずかな戸惑いが混じる。
ギンは目を細めた。家でブラッシングを受けているときと同じ顔だ。
つまり、かなり満更でもない。
「……危険、ではないのか?」
門番の一人が、槍を下げきれないままつぶやいた。
「危険ではあります。主に、ごはんを待たせた場合に」
僕が正直に答えると、ギンは小さく鼻を鳴らした。
――ごはん。
頭の奥で急かされ、僕は心の中で素直に謝った。
(はい、申し訳ございません)
最初に頬へ触れた子どもは、もう一度、恐る恐る指先を銀色の毛に沈めた。
ふわり、と毛が揺れる。ギンは逃げない。噛まない。
尻尾の先だけを、ゆっくり左右に振っている。
それを見て、木柵の隙間から覗いていたほかの子どもたちが、わっと息を吸った。
「ぼくも!」
「わたしもさわりたい!」
「だめだ、下がれ!」
門番の制止は遅かった。
小さな足音がいくつも土の上を駆け、
子どもたちは僕とギンの前に半円を作るように集まってきた。
大人たちの悲鳴にも似た声が後ろから飛ぶが、
好奇心というものは、どうやら錆びた槍よりも強いらしい。
ギンは子どもたちを順番に見た。
丸い目が、ひとり、またひとりと移っていく。
そのたびに子どもたちは背筋を伸ばした。
まるで王様に謁見する小さな臣下たちである。
――めんどう。
「人気者だな」
――とうぜん。
否定する材料はなかった。
よく見ると、集まった子どもたちは実にさまざまだった。
髪の色も、耳の形も、背丈も違う。
服装も、和風らしいものから洋風らしいもの、
布一枚に近い格好まで混じっている。
人間の子だけではないのだろう。
それでも彼らは、種族の違いなど気にする様子もなく、
同じ銀色の大きな猫を見上げて目を輝かせていた。
大人たちは魔獣を警戒しているが、
子どもたちには警戒心の欠片も見当たらない。
一番年上に見える少年が、両手を膝につけて深々と頭を下げた。
「銀猫様、さわってもいいですか」
様付けが定着しつつある。
ギンの耳がわずかに前へ出た。どうやら、かなり気に入っている。
――よい。
「許可が出ました。乱暴にしないで、顔の周りをそっとお願いします。
お腹はだめです。お腹は絶対にだめです」
――だめ二回いった。だいじ。
僕が念を押すと、子どもたちは一斉に真剣な顔でうなずいた。
異世界の子どもたちは素直でよろしい。
小さな手が、次々とギンの頬や首元に触れていく。
そのたびに、子どもたちから小さな歓声が上がった。
「ふわふわ!」
「あったかい!」
「おひさまのにおいがする!」
ギンは目を細め、喉の奥で低く鳴いた。
ゴロゴロ、という音が胸のあたりから響いてくる。
巨大化したせいで、その音も少し大きい。
まるで小さな水車が回っているようだった。
その音を聞いて、門番のひとりがぽつりと言った。
「……本当に、喜んでるのか?」
「顔の周りは好きなんですよ」
そこで、さっきの小さな子が調子に乗って、
丸い前脚の下あたりへ手を伸ばしかけた。
ギンの目が、すっと開く。
――そこは、だめ。
「はい、そこまで。お腹方面は禁止です」
僕が素早く止めると、子どもは慌てて手を引っ込めた。
ギンは小さく鼻を鳴らしたが、それ以上は何もしない。
どうやら、事前警告で済ませてくれたらしい。
大人たちの表情が、そこでようやく少し緩んだ。
恐ろしい魔獣だと思っていたものが、
子どもの手を避けもせず、いきなり襲うこともなく、ただ撫でられている。
しかも、喉まで鳴らしている。
緊張で張り詰めていた村の入口に、子どもたちの笑い声が少しずつ広がっていった。
銀色の大きな猫を囲む小さな輪。その中心で、ギンは当然のような顔をして座っている。
その光景を見ているうちに、僕の胸の奥に、少しだけ温かいものが灯った。
知らない世界で、知らない村人たちに囲まれている。
それでも、ギンがそこにいて、子どもたちが笑っているだけで、
ここにも居場所のようなものが生まれるのかもしれない予感がした。




