第43話 恩寵泉で混浴修行!銀猫様の粗相から始まるドタバタ修行
僕は胸の前で祝福剣を握り直した。
柄から伝わるぬくもりが、決意に応えるように掌へ染み込んでくる。
「よし。修行だ。僕らは、もっと強くなる」
王都の中央区には、古くから“恩寵泉”と呼ばれる泉がある。
神々の祝福がことさら濃く集まる場所で、浄化の力を高める修行にはうってつけ――というのが、リーネの説明だった。
ところが、白い湯気の向こうに広がっていたのは、どう見ても石造りの大浴場だ。乳白色の湯から、ほのかに花のような香りまで漂っている。
(温泉だね……うん。これ、どう見ても温泉だよね?)
僕らは湯着に着替え、肩まで泉に浸かった。
男女で区切られていないのが気になったものの、リーネが平然としているので、こちらだけ意識するのも負けた気がする。
僕は邪念を振り払うように目を閉じた。
「こっちの世界で温泉につかれるなんて、思ってなかったなぁ……」
思わず漏れた声に、向かい側のリーネが小さく咳払いした。
湯で濡れた髪を肩へ払うと、教師のような眼差しを僕へ向ける。
「タロウさん、ここへ来た目的を忘れないでくださいよ。浄化に必要なのは“心の澄み”です。邪念があれば、浄化の光は濁ってしまいます」
隣ではカイが岩に背を預け、完全に修行を忘れた顔で息を吐いていた。
「いやぁ~、極楽、極楽~」
リーネのこめかみがぴくりと動く。
それでも彼女は一度息を整え、説明を続けた。
「浄化の光は、影を祓うだけではありません。魔力を整えることもできるんです」
その言葉に応じるように、静まっていた水面へ銀色の波紋が広がった。
僕の隣で目を閉じていた銀猫様――ギンの身体が、淡い光をまとっていく。
ギンが前脚をそっと振る。
泉から舞い上がった雫が光の粒へ変わり、僕の肩へゆっくりと降り注いだ。
肌に触れた瞬間、身体の奥にこびりついていた重さが、すうっとほどけていく。
「……あったかい」
ギンは満足げに目を細め、真っ白な尾を振った。
――ととのう。
「これで魔力が、少し強くなった、のか……」
胸の奥に灯った光を逃さないよう、僕らは再び目を閉じた。
湯のせせらぎと、誰かの静かな呼吸だけが耳に届く。
今度こそ意識を澄ませ、浄化の光を育てていく――はずだった。
しばらくして、カイの鼻先がひくりと動いた。
彼は閉じていた目を開き、怪訝そうに湯気を嗅ぐ。
「ん……? ちょっと待て。なんか、アンモニアっぽい匂いがしないか?」
「えっ? 何、何の匂いですか?」
リーネが不安げに辺りを見回す。
「温泉だからね……硫黄の匂いがするかもしれないね」
僕はお湯をかき混ぜながら講釈を垂れてみた。
その横で、カイの視線が一点に止まった。
湯の中で頬を緩ませ、やけに幸せそうな顔をしているギンだ。
数秒の沈黙のあと、カイの顔から血の気が引いた。
「ギン! その顔……まさか、湯の中で粗相しやがったな!」
名指しされたギンは耳を伏せ、そっと目を逸らした。
「にゃぁぁぁぁ……」
「『にゃぁ』じゃない! 神聖な泉で、なんてことしてくれたんだ!」
カイは反射的に立ち上がろうとして足を滑らせた。
盛大な水しぶきが上がり、僕は慌ててその腕をつかむ。
騒ぎの中心にいるギンだけは、なぜか涼しい顔で前脚を掲げた。
――じょうか。
「いやーっ!」
リーネは真っ赤になって両腕で身体を隠し、湯を蹴立てながら岸へ逃げていく。
平常心の教えなど一瞬で吹き飛んだらしい。
「どうすんだよ! これ、絶対に管理人に怒られるぞ!」
ポンタも鼻を押さえ、泉と出口を交互に見比べている。
尻尾は落ち着きなく左右へ揺れ、動揺を隠せていなかった。
だがギンは、慌てる僕らを不思議そうに見上げただけだった。
銀の瞳はどこまでも澄みきっている。
――しんぱいない。
「心配しかないよ! お前、猫だった頃は粗相しない子だったよな⁉」
ギンは僕の抗議など意に介さず、胸を張ってひと声鳴いた。
次の瞬間、前脚から放たれた銀光が泉全体を包み込み、怪しい匂いもろとも水をきらきらと浄化していく。
――よき。
「あなた、緩めるのは表情だけにとどめておきなさいよ……困った子ねぇ……」
ゲンは保護者のような眼差しで優しく叱る。お姉さんと呼ぶべきか、お兄さんと呼ぶべきかは迷うところだが。
僕らは管理人にバレる前に、そそくさと身支度を整えて恩寵泉をあとにしたのであった。
恩寵泉で魔力を充填した僕たちは、次に王都魔法学院の訓練場へ向かった。
白亜の校舎に囲まれた中庭では、制服姿の生徒たちが火球を飛ばし、風を操り、時おり小さな爆発を起こしては教師に叱られている。
――なるほど、魔法使い見習いの皆さんらしい。
僕だけ場違いな社会科見学のおじさんに見えないか、少し不安になった。
そうだ、見た目は二十歳のはずだ。教育実習生には見えるはず。多分。
魔法学院は、魔法使いの修行の場であり、結界魔法の専門家も多い。
「今日は“多重結界”の実践訓練よ。薄い結界を何枚も重ねて、衝撃を受け流すの」
リーネは教壇代わりの石台に立ち、細い指を掲げた。
さっきまで恩寵泉で悲鳴を上げていた人とは思えない、きりりとした先生顔だ。
僕の脳裏に逃げ惑う彼女の姿がよぎったが、口にしたら訓練前に消し炭にされそうなので黙っておこう。
まずはリーネがお手本を見せる。
足元に青白い魔法陣が灯り、薄い光膜が一枚、二枚、三枚と花びらのように開いた。
重なっているのに濁りはなく、それぞれが別の呼吸で脈打っている。
学院生たちから感嘆の声が漏れ、僕も思わず見入った。
ひとつ、ふたつ、みっつ――魔法陣が重なり、光の結界が形成される。
「多重結界は、影の瘴気を“分散”させる力があるの。影の攻撃を受けても、仲間へのダメージを減らせるわ」
「任せて、リーネ。わたし、もっと強くなるわ」
ゲンは尻尾をふわりと揺らし、空中へ魔法陣を描いた。
一枚目は見事で、二枚目も美しい。
ところが三枚目を重ねた瞬間、結界がぷるんと震え、ゲンの頬を左右から挟み込んだ。
「むぎゅっ……ちょ、ちょっと! 結界のくせに生意気よ!」
ゲンが指を振るたび、結界も負けじと頬をむに、むに、と押し返す。
「ちょっと! このわたしを誰だと思ってンの!」
学院生たちは一斉に口元を押さえた。
ひとりが噴き出し、それにつられて全員の肩が小刻みに震え始める。
ゲンの隣で、ポンタも鼻息荒く魔力を練る。
「ご主人を守るために、オイラ、もっと強くなる!」
円形の結界は一枚、二枚と順調に増えたが、興奮しすぎた三枚目だけが妙に小さい。
すぽん、と鼻先にはまり込んだ。
「おわっ! ま、前が見えねえ!」
ポンタは鼻先の結界を外そうと前脚を振り回した。
だが触れるたびに、結界は鼻から額、額から後頭部へ器用に逃げ回る。
「待て、こいつ動くぞ!」
動いているのは九割方ポンタである。
そのまま蛇行し、石台へごつん。跳ね返って僕の脚へごつん。
最後はゲンの裾へ突っ込み、三人まとめてよろめいた。
笑ってはいけない。本人は大真面目なのだ。
「ご主人、たすけて……」
「自分で作った結界だよ!」
学院生たちはもう耐えるのを諦め、堂々と笑っていた。
リーネまで壁を向いて肩を震わせている。
一方、カイは一発で見事な多重結界を張ってみせた。
三層の光膜は寸分の乱れもなく、投げ込まれた訓練用の石弾を、ぱん、ぱん、ぱん、と段階的に減速させて地面へ落とす。
「……ずるくない?」
「何がです?」
本人は本気で分かっていない顔をしている。
試しに四枚目を頼むと、涼しい顔で五枚出した。
「一枚多いよ」
「余裕があったので」
こういう才色兼備のイケメンが同じパーティーにいると、心強い反面、比較対象にされる側の心には非常によろしくない。
魔力に乏しい僕も、恩寵泉で得た力を頼りに、見よう見まねで挑戦する。
掌の前に一枚目が生まれた。薄いけれど、消えない。胸の奥が少し熱くなる。
二枚目を重ねようとした途端、魔法陣はへにゃりとし、湿気たパンケーキみたいに一枚目へ貼りついた。しかも端だけ妙に膨らみ、香ばしく焼けそうな形に整っていく。
(多重結界というより、重ね焼きだな、これ……)
ポンタが横から鼻を寄せた。
「ご主人、それ食えるのか?」
「お前の鼻面に押しつけてやろうか?」
失敗の形が残るだけでも、前には進んでいる。
「タロウさん、上手、上手。その調子ですよ。二枚を別々に維持しようとせず、仲間同士みたいに役割を分けてください」
(娘ほどの若い子に褒められるのも悪くない――
いや、素直に嬉しい。褒められて嬉しいのに、年齢は関係ないな)
二つの輪が不格好ながら並んだ瞬間、胸の奥で小さな達成感が弾ける。
みんなの結界が強まるたび、周囲の空気が澄んでいく。
そんな僕らの奮闘をよそに、恩寵泉で騒動を引き起こした張本人のギンは、お昼寝の真っ最中だった。
前脚を重ね、その上に顎を乗せて日向ぼっこをしている。
ギンは薄目すら開けず、寝返りを打った。
その寝顔を見ていると、つい頭を撫でてやりたくなる。
なぜか一緒に異世界へ転移し、それでも当たり前のように隣にいてくれる猫。
仕事からくたくたになって帰った夜、玄関まで迎えに来てくれた姿が蘇った。
守られているのは、僕のほうかもしれない。
いつまでもギンの奇跡に甘えてはいられない。
僕は歪んだ二枚の結界へ、もう一度魔力を流す。
今度は、さっきよりほんの少しだけ長く保てた。




