第39話 敵は逃げたが、駄犬は進化した
近衛兵に導かれ、僕らは王宮のさらに下――
地下封印区画へ続く回廊へ足を踏み入れた。
石造りの階段を一段降りるたび、空気が冷たくなっていく。
土と鉄、そして鼻の奥にまとわりつく、かすかな瘴気の臭い。
進むほど壁の装飾は減り、華やかな王城の面影は薄れていった。
代わりに目につくのは、古びた石壁へ一定間隔で打ち込まれた封印釘だ。
最下層へたどり着くと、視界が一気に開けた。
そこには、王宮の地下とは思えないほど広大な空間が広がっていた。
古代の石柱が並ぶ先に、封印の紋章を刻んだ巨大な扉がそびえている。
けれど、――紋章の一部は、不気味なほど黒く濁っていた。
扉の前で待っていたのは、王都封印局の封印隊だった。
以前、瘴気事件で共に戦った頼もしい面々だ。
くっころ隊長ことセラフィナ・ローデン。
やたらと色っぽい結界師ユーディア嬢。
封印術師ミルド、盾役ガルド、瘴気鑑定士バルツ。
――五人全員が、再びここに集っていた。
セラフィナ隊長が一歩前へ出る。
「今回もよろしく頼む! 場所は王宮地下だ。全員、気を引き締めていくぞ!」
凜とした声が地下空間に響く。相変わらず頼もしい。
――と思った、その直後。
「モフモフちゃん、終わったらまたモフモフさせてね!」
ユーディア嬢がいつもの調子で手を振った。
「ユーディア!」
「何よ~。セラフィナちゃんだって、たまらなくモフモフしたいくせに」
セラフィナ隊長の頬がぴくりと引きつる。
うん。この二人も相変わらずだ。
封印隊の見立てでは、黒い濁りは何者かが扉をこじ開けようとした痕跡らしい。
「侵入者は封印の魔力を破れず、扉の奥までは入っていません。現在、我々は封印の補強を進めています」
報告するセラフィナ隊長の声は硬い。
ユーディア嬢も今度ばかりは冗談を口にせず、術式を書き留めた紙片を何度も確かめていた。
「封印が……弱まってる」
リーネが震える声でつぶやく。
しかも、扉を狙った何者かは、まだこの地下空間のどこかに潜んでいるらしい。
銀猫様は姿勢を低くして尻尾をぴんと立て、ゲンはリーネの肩でふさふさの尻尾を揺らす。
二匹とも、すでに臨戦態勢だ。
ポンタはカイにリードを預け、猟犬さながらに鼻をひくつかせた。
「……いる。濁った魔力の匂いだ」
その瞬間――。
奥の闇から、黒い影がぬるりと這い出した。
一体、二体……全部で五体。
輪郭は定まらず、瘴気の塊そのものが生き物のように蠢いている。
【簡易鑑定】
シャドウプレデター:五体。
人型魔獣。影と瘴気脈を伝って移動する暗黒の狩人。
外部からの命令に従っている可能性あり。
「来るぞ!」
セラフィナ隊長の号令とともに、封印隊が前へ出る。
僕も祝福剣を抜き、正面に構えた。
「また、こいつらか……!」
前回襲われたときの僕は、腹の出た動きの鈍い初老のおじさんだった。
けれど今の肉体年齢は二十六歳相当。得物だって古びた木剣ではなく、祝福剣だ。
怖くない――と言えば嘘になる。
それでも、身体の奥から湧き上がる高揚を、僕は抑えられなかった。
銀猫様の全身が銀光に包まれた。
次の瞬間、その身体は見上げるほど巨大化し、銀躁猫王様の姿へ変わる。
ゲンはふわりと宙へ浮かび、防御結界を展開。
ポンタは小さな身体で牙を剥き、そのまま黒い影へ飛びかかった。
がぶり。
ポンタが影の化け物を噛み砕いた――その瞬間だった。
黒い瘴気が渦を巻き、ポンタの身体へ吸い込まれていく。
小さかった身体はみるみる膨れ上がり、茶色の毛並みが漆黒に染まった。
「まずい! ポンタが瘴気を吸って魔獣化している!」
セラフィナ隊長が目を見開く。
そう。ポンタは再び、魔獣グリムウル――瘴気狼へと変化したのだ。
【簡易鑑定】
駄犬ポンタ(柴犬)。
影の瘴気を喰らい、戦闘形態・魔獣グリムウル(瘴気狼)へ変化。
ただし、神獣との魂の盟約により、外形と戦闘力のみ強化。
ポンタの意識を保つ精霊獣。
「ポンタ……?」
僕が呼びかけると、漆黒の巨狼はこちらを振り返った。
「おいら……なんだか、力が湧いてくる……!」
声は、間違いなくいつものポンタだ。
魔獣化してなお、今回は正気を保っている。
「大丈夫。見た目は魔獣でも、中身はポンタのままよ。しかも戦闘力が格段に跳ね上がってる!」
ゲンの声が、全員の意識へ直接流れ込んだ。
その横で、巨大化した銀猫様――ギンが前脚を振り抜く。
「にゃっ」
ぱしん。
気の抜ける音とは裏腹に、浄化の猫パンチを受けたシャドウプレデターは、消し炭のように砕けて霧散した。
「はあっ!」
前衛を務める巨漢ガルドの背後から、セラフィナ隊長が躍り出る。振り下ろされた刃が、別の一体を頭上から両断した。
僕も負けていられない――はずだったのだが。
「あれ? 敵は?」
右を見て、左を見ているうちに、すっかり敵を見失っていた。
「ご主人! おいら、まだまだ戦えるぜ!」
僕の代わりに、ポンタの力強い声が地下空間へ響いた。
【王宮地下ダンジョン調査:進捗二〇%】
シャドウプレデターを撃退。
遠隔操作用魔石:二個を確保。
瘴気脈の発生源:追跡可能。
――いや、一体だけ逃げた。
地下空間の隅で、黒い影が壁際へ滑り込む。
そこには、地上からここまで掘り進められたらしい、人ひとりが屈んで通れるほどの横穴が口を開けていた。
「しまった!」
僕が祝福剣を構え直したときには、討ち漏らしたシャドウプレデターは、すでに横穴の闇へ溶け込んでいた。
追おうとした僕を、ギンの尻尾が制する。
――ふよう。
リーネの肩で、ゲンも得意げに胸を張った。
「慌てなくていいわ、ご主人。影の臭いは覚えた。どこへ逃げても、わたしなら追える」
「あたし、瘴気の残滓をたどれるわ。むしろ好都合よ。あいつに案内してもらいましょ――影を操っている連中のところまでね」
逃がしたと思った敵が、こちらを“影の根”へ導く道しるべになる。
そう考えれば、確かに今ここで無理に追い立てる必要はない。
セラフィナ隊長は横穴を一瞥すると、すぐに封印隊へ指示を飛ばした。
「ミルドとユーディアは大扉の封印術式を修復! ガルドは護衛、バルツは結界の損傷箇所を再鑑定しろ! ここを空けるわけにはいかん!」
封印隊は即座に動き出した。
大扉の黒い濁りを除きながら、破損した封印と結界を一つずつ組み直していく。
僕らも今すぐ追跡へ移りたい。
けれど、ここは王宮の地下だ。勝手に飛び出すわけにはいかなかった。
「まずは女王陛下に報告を上げましょう。そのうえで、僕らに逃げたシャドウプレデターを追わせてください」
僕の進言に、セラフィナ隊長は力強くうなずく。
「承知した。封印隊は修復を続行する。タロウ殿たちは地上へ戻り、陛下のご裁可を仰いでくれ」
【王宮地下ダンジョン調査:次段階】
逃走したシャドウプレデター:一体。
追跡経路:地上から掘られた横穴。
ギン、ゲンによる追跡:可能。
僕は横穴の奥に残る黒い闇を、もう一度見つめた。
影の教団へつながる手掛かりが、あの先にある。
封印隊に大扉を任せ、僕らはいったん女王陛下のもとへ戻ることにした。
逃げた影の追跡を正式に進言し、次の依頼が下るのを待つために。
次にこの地下へ来るときは、調査では終わらない。
きっと――影を狩る、本当の追跡行の始まりだ。




