第3話 猫さん、権能(スキル)開眼
【固有スキル『意思疎通』を獲得しました】
青白く光る文字は、しばらく空中で揺らめいてから、すっと空気に溶けるように消えた。
「意思疎通……」
口に出してみると、妙に間の抜けた響きだった。
異世界に来て初めて手に入れたスキルが、剣術でも魔法でもなく、
お互いの気持ちが分かる能力。しかも、これは僕の能力ではないらしい。
ステータス画面の保有者はギンであり、下僕にはステータス画面すら付与されない。
ギンが、ふん、と鼻を鳴らした。
僕は野原に転がっている角兎を見た。
額の角は立派で、白い毛並みの下の体は思ったより丸い。
食べられるかどうか以前に、このあとの死体処理が分からない。
しばらく僕が呆けていると、
「ごあん!」
ギンが、傍らで右手でいつもの合図を出している。
でかい体で、何度も頭や顔を擦り付けてくる。
これまでとは違って、足元スリスリではなく、ほぼ体当たりだ。
――はやく。
声ではない。鳴き声ですらない。
けれど、頭の奥に直接意図が届く。
短くて、偉そうで、疑いようもなくギンの意思だった。
脳内なのか、心の中なのか、ダイレクトに意思が流れ込んでくる。
(なるほど……これが意思疎通というシステムか)
と、感心していると、また督促が入った。
――ごはん。
ギンの最優先の関心事が、ごはんであることは、以前と変わりがない。
「動物解体の経験なんて、僕にはないんだが……」
――つかえない。
「今、はっきり使えない、って言ったよな?」
ギンは答えず、ただ右手を上げた。
仮に、この事象が「夢」や「バーチャル世界」だとしても、
存在主体の空腹感や飢餓感が、あまりにもリアル過ぎる。
それにしてもだ。異世界転生の漫画だとかアニメ、ラノベの類には、
あまり興味関心が無い僕が、なぜ、このような体験をしているのか、
皆目、見当がつかない。
そのとき、視界の隅でまた青白い文字が瞬いた。
【スキル『簡易鑑定』を発動します】
【角兎】低級魔獣。肉は食用可。角は素材として利用可。
ただし生食は推奨されません。
いま気づいたのだが、
下僕は、主人であるギンのステータス画面を閲覧できるだけでなく、
表示スキルは、下僕にも備わるか、共有される仕様になっているようだ。
「ほら見ろ。生はダメだって、ちゃんと書いてある」
――やく。
「火がないんだよ」
――だす。
まるで、僕に出せるとでも言うような口ぶりだ。
僕は半信半疑で、右手を前に出した。
「火、出ろ!」
何も起きなかった。
当たり前だ。
五十年以上生きてきたが、手から火を出したことなど、あるはずもない。
そんなことができたら、僕は会社員ではなく教祖様になっていただろう。
――へた。
「厳しすぎないか?」
ギンは退屈そうに尻尾を揺らした。
その仕草は、家でごはんを待っているときと同じで、
僕は妙な安心感を覚えてしまう。
バカバカしいと思いながらも、ふたたび右手を前に出す。
火を思い浮かべる。コンロの青い炎ではなく、焚き火の橙色。
寒い日に手をかざしたくなるような、小さくて頼りない火。
「火!」
今度は、指先にほんの少し熱が灯った。
「あれ、なんかできるような気がする」
爪の先ほどの火だった。
風が吹けば消えそうな、情けない火。
けれど確かに、僕の指先で揺れている。
「出た……」
死んだはずの僕が、
知らない世界でスピリチ…なんとか、の力を使っている。
胸の奥が少し熱くなる。なんだか楽しくなってきた。
ギンが近づいて、僕の指先をじっと見た。
――ちいさい。
「やかましいわ!」
――でも、あったかい。
褒められたのかどうかは怪しいが、
ギンは認めてくれた。
今は、それだけで十分だった。
その拍子に、火は地面に落ちて、乾いた草の先が燃え始めた。
「あっ!」
――へたくそ。
「言ってる場合か!」
僕は慌てて足で踏み消した。
異世界での初魔法は、危うく草原火災デビューになるところだった。
とはいえ、爪の先ほどの灯で角兎を焼くには、相当な根気が必要だ。
前世でも我慢することは多少あったが、異世界の草原で魔獣を炙るために
根性を試されるとは思わなかった。
そのとき、ギンがふいに顔を上げた。
耳が前を向き、ひげがぴくりと震える。
次いで、体ごと草原の先へ向き直った。
――におい。
「なにか匂いがするの?」
その瞬間、鼻の奥に、知らない情報が流れ込んできた。
焼けた木のにおい。湿った土のにおい。草の陰を走る小さな生き物の気配。
それらが言葉になる前に、距離や方向や危険度として、
僕の頭の中に並んでいく。
これは翻訳というより、ギンが感じている世界を、
人間が認識できる情報に置き換えられる能力ということだ。
――ひと。けむり。ごはん。
最後の単語で、ギンの尻尾がさらにピンッと高く上がった。
僕は火を消し、角兎を見下ろした。持っていくか、置いていくか。
すでにギンは前脚で角兎を押さえ、僕を見下ろしている。
――もってく。
「はいはい。分かりましたよ」
答えはすぐに出た。
僕は角兎の後ろ脚を布の端でくくり、どうにか肩へ担いだ。
重い。十キロはないが、十分に重い。
異世界で最初の仕事が、ニャンコの戦利品の荷物持ちとは情けない。
主従が入れ替わり、ボスが猫である設定であることだけは承服しかねる。
ともあれ、現状の問題はクリアした。熱源、ギンの食糧、そして行き先。
颯爽と歩き出すギンの背中を見ていると、不思議と悪い気はしなかった。
ツヤツヤの毛並みが、草原の光を受けて淡く銀色に輝いている。
シルバーバックと呼ばれるゴリラのオスくらい大きくなってしまったギンの後ろを、僕はもたつきながらついていく。
遠くで、細い煙が一本、空へ昇っているのが見えた。
その下に、人の暮らしがある。そしてたぶん、肉を焼く火もある。
ギンの足取りが、明らかに速くなった。
――ごはん。
「……まずは調査と交渉だぞ、ご主人さま」




