第2話 猫さん、異世界で初狩猟
いや、近いというより、驚くほど視界がひらけていた。
空の色は、実家のある北アルプスで見た青だ。
ーーその青を、僕は両目で見ていた。
しばらくしてから、僕はようやくその異常さに気づいた。
――見えている。右目も、左目も。
草の一本一本、遠くの雲の輪郭まで、冗談みたいにはっきりと見えている。
あまりのことに息を呑み、次に、自分が仰向けに倒れているのだと気づいた。
背中の下には柔らかい草の感触があり、鼻先をくすぐる土の匂いがした。
体を起こそうとしたところで、まったく身動きできないことに気づいた。
息を吸おうとしても、胸の上に布団を何枚も重ねられたように圧されている。
重い、なんてものではない。肋骨がみしりと鳴り、視界の端が白く滲む。
「ちょ、待……死ぬ。もう一回死ぬ……」
どうにか顎だけを下げると、銀色の毛の壁が見えた。
胸の上に載っているのは、僕の九十キロ近い体を覆うほどのグレーのモフモフ。
顔ひとつで子どもの上半身くらいありそうな丸い頭。
少し不機嫌そうな目だけが、いつもどおり僕を見下ろしている。
「……ギン、なのか?」
問いかけた瞬間、ギンの耳がぴくりと動いた。
「ちょっ……どけて……死ぬ……」
さっきまで胸の上で重石になっていた前脚から、すっと力が抜ける。
だが、ギンが気にかけた相手は僕ではない。
ギンは低く身を沈める。銀色の背中の毛が、風もないのにふわりと逆立つ。
十メートルほど先、腰ほどの高さまで伸びた草むらの奥を見ている。
がさり、と草が鳴った。
草むらの隙間から、角を一本生やした兎のような、
しかし目つきの悪い小型の白いモフモフが、こちらをじっと見ていた。
それほど大きくはない。普通の兎より一回り大きい。
額の角は短いが、先端だけ鋭く光っている。
角兎(仮称)の後ろ脚が、ばねのようにぎゅっと縮んだ。
次の瞬間、草が爆ぜ、土が跳ねる。
白いモフモフは地面すれすれを一直線に伸び、
鋭い角をこちらへ向けて弾丸のように突進してきた。
「こいつ、やる気だ!」
叫んだときには、もう遅いと思った。
あの速度でぶつかれば、兎程度の大きさとはいえ、
尖った角の衝撃はえげつないはずだ。
だが、ギンの丸い瞳は、突っ込んでくる角兎を確実に捉えていた。
銀色の巨体が沈んだ、と思った次の瞬間には、ギンは草を蹴って宙へ跳んでいた。
遅れて草の穂だけがざわりと揺れ、
角兎の鋭い角は、さっきまでギンのいた空間をむなしく突き抜けた。
ギンは、静かに、滑るように角兎の横へ回り込んでいた。
丸太のような前脚が上がる。
肉球のついた、見慣れたはずの前脚だ。けれど今のそれはサイズが違う。
ーー角兎の背中に大きな影が落ちる。
角兎が気づいて体をひねろうとしたが、すでに時遅しだった。
「ドンッ!」
猫パンチがさく裂した。
当然のように威力の桁が違った。
角兎の体が地面に叩きつけられ、短い草を巻き込みながら二度、三度と跳ねる。
白い腹が一度見え、角が土を削り転がった。
最後に草の塊へ突っ込んで止まると、
「キュー……」と聞こえたあと、周囲から音が消えた。
僕は息を吸うことも忘れたまま、動かない角兎と、何事もなかったように前脚を静かに下ろすギンを見比べていた。
僕はまだ、「死んだはずなのに、生きている」ことすら処理できていない。
けれど、本能で理解した。あの角で突かれたら、たぶん、また死ぬ。
だが、いくら角があるとはいえ、
兎ごときが熊ほどの大きさの獣に立ち向かってくるなど異常行動ではないか。
この世界では、色々、これまでの常識は通じないのかもしれない。
そもそもだ、目覚めたと思ったら異世界で、
なぜかギンはクマほどの大きさとなって僕の傍らにいる。
時間も空間も超越して、何もかもブッ飛んでいる。
なのに、僕は思ったほど取り乱していなかった。
ひとつずつ考えれば全てがおかしい。だが全部まとめて起きると、人間は案外、考えるのを放棄するらしい。
「……そういう世界観、ということか」
納得したわけではないが、初老のオジサンは受け入れるしかなかった。
死んだはずなのに生きている――。
若いころなら、もっと心が取り乱していただろう。
人生というものは厄介で、年を取るほど、驚きや悲しみの角が少しずつ削れていく。
若い頃、胸をえぐったはずの出来事が、少しずつ霧の向こう側へ遠ざかっていく。
奥さんも、子供たちも、兄弟のことも、忘れてはいない。けれど今は、なぜか遠い昔の記憶のように感じられた。人として、それはどうなんだと思わなくもない。
だが、もし千年以上も生きてきた者がいるのなら、
世界との距離感とは、案外こういうものなのかもしれない。
僕は今、その千年生きた何かに、少しだけ近づいてしまったような気がしていた。




