第1話 銀猫さんと、僕の終わり
お読みいただきありがとうございます。本作は、猫を愛する初老の会社員が、巨大化した愛猫に振り回されながら異世界を歩いていく、少しおかしくて少しあたたかい冒険ファンタジーです。
ギンのわがままや、タローのぼやき、そして二人のゆるい主従関係を楽しんでいただければ嬉しいです。モフモフとごはんを追いかけながら、少しずつ広がっていく異世界の旅にお付き合いください。
その夜、僕は死んだ。
けれど最後に聞こえたのは、妻の声でも、救急車のサイレンでもなかった。
うちの猫が、ごはんをねだるときの、コミカルで、少しだけ間の抜けた声だった。
「ごあん」
うちの猫の名前は、ギンという。
四歳のオスのブリティッシュ・ショートヘア、毛色はグレー。
見た目はどっしりしているのに、鳴き声は少し高い。
丸い顔に、まん丸の目。
何が可愛いのかと聞かれれば、もちろん全部に決まっている。
ギンは、ごはんが欲しいときだけ「ごあん」と鳴いて、右手を挙げる。
他人に言えば、猫を溺愛する気の毒なおっさんだと思われるだけなので、
人前で話したことはない。
ギンはごはんにはうるさく、気に入らないと控えめな声で文句を言い続ける。
ブラッシングの要求も、たぶん少し変わっている。
日に三度、自分から風呂場の前へ行き、そこで鳴いて、
風呂場でのブラッシングを要求するのだ。
この行儀の良さとわがままは、うちの奥さんの厳しいしつけと、
僕の甘やかしのシナジーの賜物だ。
奥さんはギンを「天使」と呼んでいる。
だが、その罰当たりな天使は、キスを完全拒否する主義である。
顔を寄せると、前脚で「ムギュッ」と押し返される。容赦はない。
その日の夜も、ギンはいつものように僕の布団の上にいた。
遠慮という概念なしに十キロ超の体格で、胸のあたりへのしかかってくる。
もう立派な成猫なのに、やがて、そのままフミフミを始める。
ーー重い。正直に言えば、かなり重い。
けれど、毎日のその重みに、僕はギンの愛情を感じていた。
飼い主は奥さんのはずなのに、なぜか十キロの体を乗せられるのは、
たいてい僕の役目だった。
僕の右目は、視力がほとんどない。
左目で、辛うじて、ぼんやりと見ることができる。
定年まで指折り数え始めた頃、緑内障だとわかった。
だから僕は、ギンの輪郭よりも、
布団に沈む重みや、風呂場へ向かう足音や、少し高い鳴き声で、
今日もそこにいるのだと分かっていた。
ふと、左目の奥がチカチカした。
最初は画面を見すぎたせいだと思った。
だが次の瞬間、頭の奥で何かがぷつりと切れたような感覚があった。
痛みは、黒い水が滲むように広がっていく。
「ああ、これはまずいな」
と、他人事みたいに思った途端、立ち上がろうとした膝から力が抜けた。
底の抜けた闇の中に落ちていくような感覚。
遠くで奥さんの声がした気がする。
返事をしなければと思ったが、舌も指も、もううまく動かなかった。
「ごあん」
近くで、ギンが鳴いた。
ごはんが欲しいときの、いつもの少し高い、おねだりの声だった。
けれどこのときだけは、なぜか、僕を呼び止めているように聞こえた。
僕は最後の力で、ギンの丸い頭へ指を伸ばした。
柔らかい毛並みに触れた瞬間、世界がふっと軽くなった。
――ああ、死ぬのか。
意識が沈む直前、胸の上の重みが、ほんの少しだけ増した気がした。
十キロのはずのギンが、まるで僕を闇から押し返すみたいに、ずしりと大きくなる。
「ごあん」
それが、僕が元の世界で聞いた、最後の声だった。
――そして次に目を開けたとき、空が近かった。




