第25話 浄化の猫パンチ
もちろん、まったく嬉しくない。
森へ近づくほど、空気が重くなる。息を吸うたびに肺が痛い。
まだ朝だというのに、木立の奥は夕暮れのように暗い。
幹には黒い染みが広がり、葉先は焦げたように丸まっていた。
行く手を塞ぐ蔦を払いのけると、腰の高さほどの石柱が姿を現した。
表面には、剣と輪を組み合わせた神紋が刻まれている。
石柱を走る黒い亀裂からは、煙のような瘴気がじわりとにじみ出していた。
リーネは伸ばしかけた手を止め、目を伏せて耳を澄ませた。
「これは守護結界です。
ただ――黒く染まったところだけ、精霊さんたちの声がぷつりと途切れています」
ギンが右の前脚をすっと持ち上げた。
すると、視界の端に青白い文字がぽん、と浮かび上がった。
【簡易鑑定】
森の境界石。古い守護結界の末端。
現在、瘴気による浸食率二三%。完全破損まで猶予あり。
ただし、近くに瘴気溜まりを確認。
危険な瘴気溜まりが『近く』にあるらしい。
近くってどっちだ。何歩だ。せめて矢印くらい出してほしい。
異世界のステータス表示、地図アプリよりだいぶ不親切である。
その不足を補うように、ギンが鼻先をひくつかせ、耳をぴくりと動かした。
――こっち。
そして迷いなく、獣道の先へ鼻を向けた。
「さすが銀猫様。もはや鑑定、索敵、案内の全部入りだな」
五十メートルほど進むと、ギンはぴたりと足を止め、尻尾を低くした。
カイが盾を構え、リーネも杖を胸元へ引き寄せる。
静まり返った茂みの奥で、木々の影だけが風に逆らって揺れた。
――いる。
僕は木剣を握り直した。
その瞬間、足元の影が、僕の動きに一拍遅れて震えた。
影が遅れる――? 影が二重、三重に重なって濃さを増す。
その中心から、墨を垂らしたような黒い染みが地面へ落ちた。
染みの輪郭がゆっくり歪み、人の形を取り始める。
「瘴気の筋」から、真っ黒な細すぎる腕と長すぎる首が伸びてきた。
目のあるべき場所は深く窪み、その奥で白い歯だけが幾重にも噛み合っている。
影が完全に裂け、ゴム人間のような怪物が音もなく姿を現した。
三体の黒影は関節を逆向きに折って身を低くし、胸も肩も揺らさぬまま包囲へ散った。
見えない糸に引かれたように、三つの顔の窪みが同時にこちらを向く。
【簡易鑑定】
シャドウプレデター。人型魔獣。影と瘴気脈を伝って移動する暗黒の狩人。
本来、この地域には生息しない。外部からの命令に従っている可能性あり。
読み終えるより早く、三体の首がまったく同じ角度に、かくりと折れた。
次の瞬間、三体の輪郭が足元からほどけ、再び瘴気の筋の中へ沈んだ。
――くる。
「三体! 足元から来るぞ!」
背後で、濡れた布を裂くような音がした。
振り向くより先に、影が僕の首筋へ向けて細長く伸びる。
ほどけた影が鋭い鉤爪へ変わった。
虚ろな窪みが僕の肩越しに覗き込んでくる。
「後ろだ!」
カイが割って入り、盾で、鉤爪を受け止める。
激しい金属音が響いた。爪が盾を撫でるたび、鋭く引っかく音がした。
次の瞬間、別の影がリーネの足元からも立ち上がる。
カイは盾を旋回させ、僕ら全員を背に庇った。
僕も木剣を振り抜く。
だが手応えは薄く、瘴気を散らすだけだった。
散った闇は、黒い筋――瘴気脈へ吸い込まれた。
骨のない手、腕、首を順に吐き出し、ふたたび人の形を作った影は、何事もなかったように、かくりと首を傾げた。
――ひだり。
とっさに左へ木剣を突き出す。
切っ先は胸を貫いた。やはり手応えがない。
「木剣じゃ、こいつらに太刀打ちできない!」
空洞の顔が、影を伝って僕の近くへ滑り寄る。
ギンが僕の肩を踏み台にして跳び、黒い胸元へ右前脚を叩き込んだ。
ぱしん、と場違いなほど軽い音がする。
白銀の光が弾けると、影の身体に亀裂が走り、足元の瘴気脈とのつながりが焼き切れた。シャドウプレデターは、霧散するように消え、残ったのは、小指の先ほどの魔石だけだった。赤黒い光が心臓のように脈打つ。
――じょうか。
「浄化の猫パンチ・改。音は軽い。だが、効果はえげつない」
残る二体が左右へ散った。影から鉤爪だけが次々と突き出される。
だがカイは視線より先に盾を動かし、立て続けに弾き返した
その隙にギンが一体を打ち、暗黒の輪郭を瘴気脈から引き剥がした。
亀裂の走った身体へ、リーネが火球を撃ち込む。
火は内側へ食い込み、そいつは声ひとつ上げず、炎の中へ溶け込んでいった。
――りーね、できるこ。
触れてもいないのに、残された魔石はゆっくりと僕らの方角へ向きを変えた。
拾い上げると、青白い文字が浮かぶ。
『遠隔操作用魔石。術者不明。命令残滓あり』
つまり敵は、明確な悪意を持って魔獣を操っている。
境界石一つの不具合どころか、事件の規模が勝手にランクアップしていた。
そう考えた直後、視界の端で青白い文字が再び明滅した。
【森の境界異常調査:進捗五〇%】
シャドウプレデターを撃退。
遠隔操作用魔石:二個を確保。
瘴気脈の発生源を追跡可能。
――にげた。
三体のうち二体は倒した。
一体は瘴気脈の中を伝って逃げてしまった。
ギンは地面を這う瘴気脈へ鼻先を向け、そのまま森の奥へ歩き出した。
黒い筋を追うほど、湿った土と錆びた鉄の臭いが濃くなった。
採取した空気を入れた小瓶の結晶は、淡い紫色に染まっていた。
判定は、案の定、注意域だった。
「一つ目。瘴気あり」
依頼票の余白へ書き込み、小瓶を荷袋へ戻す。
僕が地図に印をつけているあいだに、リーネが足元の枯れ葉を払いのけた。
その下では太い瘴気脈が脈打ち、森の奥の窪地へ続いていた。
その先で、岩ほどもある黒い結晶――瘴気核が不規則に明滅している。
核から伸びる瘴気脈は触手のように地面と木々の影へ潜る。
さっきのシャドウプレデターを運んだ道だ。
「二つ目。瘴気核を確認。魔獣を送り出す瘴気脈あり。遠隔操作用魔石も確保」
枝葉の隙間から空を仰ぐと、太陽はすでに西へ傾いていた。
瘴気脈の先は気になる。だが、依頼は日没までの帰還が条件だ。確保した魔石と瘴気核の記録を持ち帰る方が先だった。
「撤収しよう。印を残して、日没前にギルドへ報告する」
言い終えた、その瞬間、
まるで最悪のタイミングを見計らっていたかのように、胸元の銀の鈴が鳴った。
澄んだ音は二度で止まらず、静まり返った森に鳴り続ける。
僕らは一斉に来た道を引き返した。
けれど胸元の鈴は、森を抜けても鳴りやまない
――まるで、逃げても無駄だと告げるように。




