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春を蒔く  作者: ねるね
道まだとおく
8/10

初めての北部

「よお、嬢ちゃん。ほんとに客車じゃなくていいのか?」


 バーレイ領を発つ前、荷室を覗き込んで聞いた護衛に、ベアトリスは麦袋に張り付いて答えた。


「大丈夫です。頑丈さには自信があります!」


 どんと胸を叩いたベアトリスだったが、王都を出るころには尻当てを三枚に増やした。

 さすがのベアトリスでも、荷室での長旅はなかなかに堪えた。

 だからといって、この大切な五袋の麦を、万が一にも失うわけにはいかないのだ。



 領を出る数日前、荷馬車を貸してほしいと頼んだベアトリスに、父は用途を尋ねた。


「グラニエール領に、麦を届けに行きます!」


 父は逞しすぎる娘の返答に青ざめ、北へ行く商隊に話をつけてくれた。また、行き先が娘の恩人だと知った父は、さらに麦を二袋と小山のような保存食を持たせたのだった。



 北部までの長い道のりのなかで、ベアトリスは何度か弱気になった。

 どうして返事がないのだろう。自分のことなど忙しさのなかで忘れてしまったのだろうか、と。

 けれどもすぐにかぶりを振って思い直す。忘れられていたっていいじゃないか。ほんの半年足らずの知り合いなど覚えていなくてもおかしくない。そうだとしても、自分は「美味しくできたので食べてください」と言って麦を置いてくるだけだ。

 ただ、『君ならできる』と言った彼の笑顔は見られないかもしれないと思うと、心臓がチクリと痛んだ。


 グラニエール領に入り領都で商隊と別れると、街で荷馬車を借りていよいよ領主邸へと向かう。


 北部の領は、南部とはすべてが違っていた。

 七月だというのに日差しは弱く、御者台にいると肌寒ささえ感じる。ベアトリスは貴重品を入れているカバンからマントを取り出して羽織った。

 領都はいくらかは栄えていたが、郊外になるにつれ荒野が目立つようになった。ところどころにある畑を見ると、野菜も麦も元気がないことは遠目にもわかる。


 やがて白い岩山の前に、重厚な石造りの屋敷が現れた。

 荘厳に見えたその建物は、近づくにつれひびや欠けが目について、庭の伸び放題の生け垣だけが生命力を誇っていた。


 何度か声をかけてようやく出てきた使用人に名乗ると、いくらも待たないうちにセドリックが現れた。

 実に、二年ぶりの再会だった。


 彼はほんの少しだけ血色が良くなった顔を驚きに染めて、呆然と立ち尽くしている。


「セドリックさん! 私、美味しい麦を作りました!」


 動悸の止まらない胸をマントの上から押さえ、ベアトリスが大きな声を出すと、セドリックは弾かれたようにのけぞった。


「もしかして、あの手紙をくれたのは君か……?」



 ベアトリスが初めて彼に送った手紙は、差出人を書き忘れていたそうだ。それはとんだ怪文書だったことだろう。どおりで返事は来ないはずだと、忘れられてはいなかったことにほっとした。



 荷馬車から一つだけ担いできた麦の袋を開いて、セドリックに見せる。

 彼は粒をつまみ、光にかざした。


「よく肥えた良い麦だ。これを君が?」


「はい! 畑も麦踏みも収穫も、やりました!」


「ではありがたく、すべて買い取ろう」


 買い取ろう……?

 聞き間違いだと思い、話を進める。


「あの、五袋持ってきたんですが、どこに降ろせばいいですか?」


「五袋か……。すまない。今は全額分の持ち合わせはないかもしれない」


 どうやら聞き間違いではなかったらしい。



「お金なんていりません。セドリックさんに食べてもらいたくて、私が勝手に作ったんです」


「君が女学校にいた間、麦の世話は誰がしていた? それに君自身の労働にだって、対価は支払われるべきだ。労働資本の価値について、以前教えただろう」


「うっ……」


 確かに聞いた。図書館で色々な教科を教わりながら、あれは農政についての話だっただろうか。

 彼の教えをすっかり忘れきっていたことに、途端に恥ずかしさを覚えて小さくなった。


「じゃ、じゃあ三袋分だけ。二袋は父から以前のお礼にと持たされたものだから……」


「男爵殿からだって? それならなおさらうやむやにはできまい」


 セドリックはそう言って、ベアトリスが反論の糸口を探している間に、お金と借用書をさっさと用意してしまった。



 ベアトリスはその金額を見て目をむいた。


「これはいくらなんでも多すぎますよ! うちの売値の五倍ほどじゃないですか!」


「ここでその麦は、それだけの値打ちがある。流通にかかる経費、希少価値、仲介人を通す代金。それらが上乗せされるとそうなる」


 ベアトリスは生まれて初めて目まいがした。こんなに生真面目な人は、バーレイ領には絶対にいない。


「仲介人はいません! うちの売値と行き帰りの経費分だけでいいです! それ以上払うと言うなら、借用書を破いて収穫祭のかがり火にくべてやります!」


 もはや自分が何を言っているのかわからなかったが、とにもかくにももらいすぎだということは分かる。



 両者一歩も譲らないまま睨み合いは続き、少しベアトリスが飽きてきたころに、誰かの腹の虫が鳴った。

 誰かの、ではない。ベアトリスだ。



 なんとなく馬鹿馬鹿しくなって、二人して気が抜けたように笑った。

 その後ベアトリスは麦を降ろし、当初提示された半分の金額だけをいただいて、逃げるように去った。


 グラニエール邸の貯蔵庫に積み上げた保存食に気づかれて、また押し問答になるのはごめんだ。

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