彼を知る
いつもの自習室、すっかり定位置となった隅の一卓。特に約束をしていなくても、休日の午前にはセドリックはたいていそこで待っているようになった。
セドリックの教え方は相変わらず容赦がない。彼はほとんどの時間、手もとの本に視線を落としたまま、時折こちらのノートを覗き込んでは指摘を飛ばす。
「百年前の飢饉の被害を最大化させた政策は何か、わかったか? 前後の出来事との因果関係を探してみると、頭の中も整理されるぞ」
「すみません。歴史は苦手で……」
「確か算術もそう言っていたな。君は農政を学ぶんだろう? 過去から未来を学ぶつもりで資料を見るんだ」
ベアトリスは慌ててページをめくる。一行ごとに指で追いかけながら、時々指を戻したりページを何度も行き来して、文字を拾い上げていく。
できない言い訳には耳を貸さず、できても褒められることはない。それでも彼に教わるようになってから、ベアトリスは勉強に対する意識が少しずつ変わっているのを実感していた。
「休憩にする。五分後開始だ」
「中庭で少し体を動かしてきます」
「……五分だからな」
とはいえ、やはりベアトリスは体を動かすことの方が性に合っている。
走っていませんと主張できるギリギリの速さで中庭に向かい、到着すると中庭の端から端まで全力疾走で往復する。それからお茶を飲み、自習室に戻った。
おそらく五分は経っていない。
すると、ベアトリスが座っていた席に誰かが座り、セドリックと小声で話をしていた。
「リリィ?」
それは、いつかベアトリスに話しかけてきた、愛猫によく似た少女だった。
彼女はベアトリスの呼びかけに大げさに肩をビクつかせて振り返ると、また前を向いた。
「ほら、セドリック様、お聞きになりまして? あの人、本当に気味が悪いのです。あんな人と一緒にいてはいけませんわ」
今度は気味が悪いと言われてしまった。
──ああ、男子よりも女の子から言われる方がずっと悲しいかもしれない。
困ったように笑うベアトリスをチラと見やり、セドリックが少女に問いかけた。
「本当に彼女にお会いしたことはないのですか、リリーベルモンテローザ嬢」
リリーベルモンテローザ・ポピリアンフローラスティ侯爵令嬢。
それが彼女の名前だった。
ベアトリスは何度も舌を噛んでようやく言えるようになったが、覚えられる自信はない。
「それで、リリィベルモンタラスティ様は、私があなた様を勝手に愛称で呼んだことに対して『気持ち悪い』と言ったんですか」
「もう訂正するのも疲れましたわ。お好きにお呼びになって。そうよ。まさか猫の名前だなんて誰も思いませんわ」
セドリックの取りなしによって誤解は解け、リリーベルが話があると言うので二人でロビーに出てきたところだった。
「人様に向かって気持ち悪いと言ったことは謝りますわ。ですが、セドリック様に関わるのはもうおやめくださいませ」
「そう言われても私、あの人とはここで勉強を教わってるだけで、名前くらいしか知りませんし……」
「名前だけ、ですって?」
リリーベルは信じられないものを見るような目でベアトリスを見た。
「はい。グラニエール…でしたよね。長い家名だなーって思ってたけど、リリーベル様の方がうんと長くてびっくりしました。ポピ……?」
「そういうことではありませんわ!」
ぴしゃりと遮られ、ベアトリスは口をふさいだ。
リリーベルは苛立ちを隠そうともせず、小さく息を吐く。
「あなた、本当に何もご存じないのね」
「何が、ですか?」
問い返すと、リリーベルは一瞬だけためらう様子を見せた。けれどすぐに決心したように話し出した。
「グラニエール伯爵家は、今は爵位だけのような状態ですわ」
「えっ」
思わず声が漏れた。
「鉱山を失い、収入は激減。北部で土地は痩せている。それでもあの方は、すべてを立て直すためにここで学んでいらっしゃるの。寝る間も惜しんで、食事も削って」
そこまで聞いて思い至った。
『つましい生活』、『知識を持ち帰って期待に報いる』、払えない寮の食費や生まれたての子牛のように軽い体。
(そういうことだったんだ……)
言葉にならないまま自然とうなだれ、視線が落ちる。
「……ですが」
リリーベルの声が少し明るくなった。
「セドリック様なら絶対に立て直せますわ。あの方、首席ですのよ、首席。これから必ずやお家は再興なさるでしょう。そうしたら私は、」
ベアトリスは目を上げて、言葉を切ったリリーベルを見る。彼女の頬は淡く染まって、夢見るような表情だった。
「あの方に、け、結婚を申し込みますの。お父様が何と言っても知りませんわ。私とあの方が並び立つ姿、とても絵になると思いませんこと?」
「えーと、リリーベル様は、失礼ですがおいくつでしょうか」
うっとりしていたリリーベルは、ベアトリスの質問に毛を逆立てて返答した。
「九歳よ!! なによ、あなたも年の差なんて野暮なことを仰るの?」
「いえ、年の差はいいんですけど、並び立つと身長差がすごいなって思っただけです」
リリーベルはぷりぷりと怒りながら、待たせていた護衛を引き連れて帰っていった。
「お嬢様の護衛って大変そうだなあ」
見送るベアトリスの胸中には、漠然とした焦りが生まれていた。
セドリックも九歳の少女も将来をしっかりと描いている。
ベアトリスの将来はどんなものだろうか。わからないけれど、美味しい麦を育てていられたらいいなと思った。




