第十話 張り込み
北潟幸恵。
久我英二と同じ宗片商事に勤める木多千区在住の二十代女性だ。
勤務態度は良好。見た目も穏やかそうであるが、英二が既婚者と知りながら交際を続けていたという。
昭子に関係が露見してから、仕事以外で英二に接触することはなく、刑事課の張り込みが行われてからも二人が共にいる姿は目撃されていない。
「こういう張り込みって、相手にバレたりしないんですか」
路肩に停めた車の中から、道路を挟んで向かい側の宗片商事の本社ビルを眺める。
時刻は既に二十一時を迎えようとしており、正面入り口からは疲労の色を滲ませたスーツ姿の社員がぱらぱらと姿を現していた。
「普通は気が付かないよね。まさか自分が張り込まれてるなんて思いもしないじゃん」
「確かにそうですけど」
張り込んでいる側としては、逆に相手の視線が気になってしまうというか、なんというか。
「――というか、何でそんなもの飲んでるんですか」
「栗花落君も飲む?」
そう言って差し出されたのは、山のようにクリームとキャラメルソースが乗ったカプチーノ。
先程、軽食を買いに行くと言って車から降りた御子神さんが、戻ってきた際に手にしていたのがこの甘さの暴力的な飲み物である。これはどう見ても軽食ではない。
「遠慮します」
「こういう時は甘いもの飲んで癒された方がいいよ」
「いや、おかしいですって、色々と」
「イライラするのも糖分足りてないからじゃない?」
そんなわけないだろうと、睨む俺など気にもせずに至福そうな顔でストローを咥える御子神さんに、緊張感も何もかもが削ぎ落とされていく。
「……もう何でもいいんですけど、何で北潟幸恵の張り込みなんです? 直近で接触された新橋杏南も危険ですよね」
強引に思考を目の前の仕事へと戻す。
御子神さんは窓の外を眺めながら、口を開いた。
「資料にあったと思うけど、一番初めに浮気が発覚したのは誰だった?」
「……水瀬やよい、だったかと」
「そう。興信所を雇って、浮気の証拠を水瀬やよいに叩きつけたわけだ」
仮にも同級生だった人物のこういった話を聞くのは、やっぱり少し気が引ける。
「で、その過程で、不二見茜の関係も洗い出されたよね」
「そうですね。水瀬やよいを調査している段階で、と昭子本人が証言していた、と植木さんからも聞いてます」
御子神さんはストローでクリームをかき混ぜながら続ける。
「次に、英二が自ら北潟幸恵との関係も暴露し、昭子は三人に対して慰謝料請求をした。つまり、この時点で昭子はこの三人の写真を手に入れていた可能性があるよね」
「……あ」
新橋杏南は、英二と昭子の証言からも情報が得られなかった浮気相手である。
昨日の接触が、新橋杏南との初めての接触だとしたら――。
「既に写真を入手されているであろう北潟幸恵の方が、先に呪いをかけられている可能性が高いですね」
「そういうこと。あともう一つ――水瀬やよいが殺害された日と、不二見茜が殺害された日はいつだっけ?」
「ええっと、十日と十七日ですね」
「で、今日は何日?」
「二十四ですね。……七日周期ってことですか?」
「お、察しがいいね。まあ、これは何となくなんだけどさ。呪いには色々条件があるでしょ? 仮に昭子が呪いをかけた犯人だとして、これだけ恨みを持っている人間が、わざわざ殺害間隔を空けるのは違和感があって」
「――周期性がある、と」
「ま、殆ど勘だけどね」
残ったカプチーノを全て飲み干すと、御子神さんはシートに座り直す。
「一応、勅使河原さんには新橋杏南の方をお願いしてるから、あっちが先に呪われていたとしても何とかなるでしょ……って、話してる間に出てきたね、北潟幸恵」
御子神さんに言われ、宗片商事の入り口に視線を移すと、すらりとした細身のスーツ姿の女性が門を潜るところだった。その容姿は資料で見た通り、北潟幸恵で間違いない。
「さて、栗花落君。気合い入れていこうね」
「気合いですか……」
「呪いは怖いものだからさ」
そう言いながら、御子神さんは颯爽と車から降りた。俺もそれに続いて運転席から外に出る。
冷たく乾いた初冬の風が、頬を撫ぜる。その冷たさが、どこか胸をざわつかせるような気がした。
北潟幸恵は、退社する社員たちの流れに紛れるように歩き出した。
彼女を見失わないように――けれど、距離を詰めることなく、あくまで歩行者の波の一部として、俺たちも歩みを進める。
「今のところ、不自然な点はないですね」
御子神さんは、ただ前方を見据えたまま小さく頷く。
「このまま何事もなく終わってくれればいいんだけど」
言葉とは裏腹に、その表情は険しい。
そんな御子神さんの様子に、胸の奥が僅かに引き締まる。
北潟幸恵は交差点を一つ越えたところで、ふと足を止めた。
暫くその場に立ち尽くしたかと思うと、再び歩き出す。その方向は、彼女の帰路とは全く別の道だ。
「……自宅の方向じゃないですよね」
「繁華街の方でもないな」
御子神さんが言う通り、彼女が進んだ先は繁華街ではなく、人通りの少ない細い脇道。
昼間ならともかく、街灯の少ないその通りは薄暗い。
そんな通りを、北潟幸恵は迷いのない足取りで進んでいく。
「あの先って何かあったっけ?」
「……この周辺には目ぼしい建物はなかったと思います」
土地勘はないが、張り込み中の車内で周辺地図は一通り確認している。
この区画には古い住居が立ち並ぶだけで、彼女と接点があるような場所はなかった筈だ。
「……どうします?」
人通りがない分、尾行に勘付かれる可能性は高い。
「うーん、行くしかないよね」
肩を竦めてそう答えると、御子神さんは歩調を落とし、距離を保ったまま彼女の後を追う。
俺もそれに倣い、足音を極力殺しながら進んだ。




