第六話 深い溝
不二見茜の遺体が発見されてから数日。
彼女が亡くなるまでの足取りを辿ると、何度か久我昭子と接触していたことが判明した。昭子曰く、それは不倫による慰謝料請求のやり取りのためとのことで、不二見茜の殺害に繋がりそうな証拠は何一つ出てこない状況が続いている。
そんな中、珍しく彼女――夕奈から連絡が入っていた。
お互いに仕事に明け暮れていた所為で、最後に顔を合わせたのは随分と前な気がする。
何とか都合をつけて久し振りに会った彼女は、以前と変わらない笑顔を浮かべていた。
けれど、その笑顔の奥にほんの少しだけ距離を感じてしまうのは、恋人として彼女に何もしてやれていない後ろめたさの所為だ。
「何か疲れてる?」
黒浜海浜公園近くのカフェに入り、席に着くと彼女がゆっくり口を開いた。
責めるでもなく、探るでもなく。
ただ事実を確認するような、そんな口調。
「まあ……ちょっと立て込んでて」
「そっか。異動したばかりだし、大変だよね」
「それ程でもないけど、今はちょうど事件を担当してるから」
「ちょっと前まではお巡りさんだったのに、今は刑事って感じだね。凄いよ」
「……凄いのかな。まだまだ新米だからさ」
実際、殆ど御子神さんに振り回されているようなものだ。
「そっちは最近どう? 忙しいよね」
「私? 私はぼちぼちかな。漸く、プロジェクトが落ち着いてきたから少し楽になるかも」
「プロジェクトってこの前言ってたやつ?」
「そうそう」
それきり、会話が途切れる。
夕奈と居る時、今までどんな会話をしていただろう。
沈黙を埋めるように、俺はコーヒーに口を付けた。苦味がじわりと舌に残る。
「そう言えば、年末も忙しいの?」
夕奈が少し遠慮がちにこちらを見る。
「去年は私が仕事で会えなかったし、今年はどうかなって」
年末、か。
去年は配属前だったこともあり、年末年始の休みが取れたが、特案の取り扱いは分からない。
手元の事件も解決できていない今、休みを考える余裕は正直なかった。
「確認してみるよ」
その言葉が約束ではなく、その場をやり過ごすための返事だと、自分でも分かっていた。
「うん。でも、無理しなくていいからね」
夕奈はぎこちなく笑って言った。
その後、食事をしながらぽつぽつと他愛ない話をして、俺たちは店を出た。
海浜公園沿いの道は、西日に照らされてオレンジ色に染まっている。
潮の匂いを含んだ風が頬を撫でる。
夕奈は俺の少し後ろを歩いていて、それもまた彼女との溝を示しているようだった。
***
彼と初めて出会ったのは、大学三年の秋頃だった。
履修していた講義が偶々被って、偶々近くの席になっただけ。
目鼻立ちの整ったその横顔を見た時から、私は彼に惚れてしまっていたのだろう。所謂、一目惚れというものだ。
内気な私と違って、彼は社交的で友人も多かった。
その輪に入りたい一心で、私は彼に声を掛けた。
それが切っ掛け。
彼は誰にでも分け隔てなく優しくて、私の会話にも耳を傾けてくれて、それがただただ嬉しくて――。
春を迎える頃に、私は彼へ想いを伝えようと思った。
例え、玉砕しても構わない。それでも、彼には私の好意を知ってほしかったのだ。
今思えば、随分と自分勝手な女だなと思う。相手の――柚希くんの気持ちなどは、お構いなしだったのだから。
自分でも驚いたことに、私の淡い恋心は、それはそれはあっさりと受け入れられてしまう。
こんなことがあってもいいのかと、当時の私は夜も眠れずに浮足立った。
それからの学生生活は、夢のような時間だった。
彼の隣に居れるだけで、私は幸福を感じていた。きっと、あの頃が一番幸せだったと思う。
そう、幸せ“だった”のだ。
あの出来事は、もう過去のこと。
今はただ懊悩が、私の心を満たしていた。
私は柚希くんが好きだ。
彼の外見も内面も全て好き。
勿論、柚希くんも私のことを好きだと言ってくれる。けれど、私の”好き”とは違うのだ。
そのことには薄々気が付いていた。でも、知らない振りをしていた。
だって、私は柚希くんが好きだから。私と同じように、彼も想ってくれていると、信じたかったから。
彼はどこまでも優しい。
恋人の私にも、そして赤の他人にすら。
これは私の我儘だ。
特別扱いをされたいという、願望。恋人としての特権が欲しいと、貪欲にも願ってしまった私の弱さ。
その温度差が、こうして彼の隣を歩けない自分に反映されている。
本当に情けない。
「ねえ、柚希くん」
私の声に、彼が振り向く。
ああ、いつも通りの表情。優しいけれど、同時にどこか冷たさを孕んだ彼。そこに私に対する愛情はきっとないのだろう。
「私のこと、どう思ってる?」
「……急にどうしたの?」
「聞きたくなっただけ」
我ながら、面倒臭い女だな、と思う。
そして、狡い私は彼の答えを潰すのだ。
「好き以外で答えて」
彼は一瞬、戸惑ったような表情を浮かべた。それから直ぐに、優しい笑顔に戻る。
「好き以外か……凄く大切な人、かな」
「……そう」
ありふれた言葉。
彼の声色は、いつもと同じ温度だった。それは誰にでも向けられる、一定の温度。
「今日は話せてよかった。明日も早いし、今日はこのまま解散しよ」
「そうなんだ。分かった。……仕事、早く落ち着くといいね」
「うん、ありがとう」
彼は私を好いてくれている。
そんなことは分かっているのに、貪欲な私はそれを受け止めきれない。




