第二話
アーヴィン・フォン・ローゼンベルク伯爵の領地へ入ったのは、王国を出て四日目の午後だった。
国境の宿場町で馬を替えた後、馬車はなだらかな丘陵地を抜け、石造りの館へ続く並木道へ入った。
門には伯爵家の紋章が掲げられており、玄関前には数人の使用人が控えていた。
コレットが馬車を降りると、アーヴィンが自ら出迎えた。
王宮で最後に会ってからしばらく経っていたが、彼は以前と変わらない落ち着いた態度で挨拶し、長旅を終えたばかりなのだから、詳しい話は翌日にしようと勧めた。
コレットが隣国へ渡ることを決めた際、アーヴィンは自分の館に滞在するよう申し出ていた。
祖母の手帳に残された紋章について書簡を交わすうちに、彼の家には先王朝に関する記録が多数保管されていることが分かり、コレットも一度は原本を確認したいと考えていたのである。
婚約解消と聖女の継承が正式に決まったことを知らせると、アーヴィンからは、調査を続けるのであれば伯爵家の書庫を自由に使ってほしいという返事が届いた。
滞在中の身の安全についても責任を持つと記されていたが、コレットは必要以上の世話になるつもりはなく、生活費や調査にかかる費用については自分で負担することを条件に申し出を受け入れていた。
案内された客室は庭に面した静かな部屋で、窓辺には小さな書き物机が置かれていた。
荷物を運び込んだ侍女は、夕食の時間と湯浴みの用意について尋ねた後、何か必要なことがあれば遠慮なく申しつけてほしいと告げて退出した。
コレットは机の上に祖母の手帳を置き、しばらく部屋を見回した。王宮でもヴァルディス家でも、彼女の部屋には常に仕事の書類が積まれており、翌朝には神殿から使者が来ることも珍しくなかった。しかし、ここには急いで仕上げなければならない書類も、王族の予定に合わせて行動するよう命じる者もいない。
その夜、コレットは久しぶりに日が昇るまで眠った。目を覚ましたとき、身体の奥に鈍い痛みが残っていないことに気づき、しばらく寝台の上で手を握ったり開いたりしていた。聖女の力を失ったからといって、八年間にわたる消耗がすぐに回復するわけではない。それでも、朝から指先が震えることもなく、起き上がるだけで息が切れることもないというのは、彼女にとって思いがけない変化だった。
***
翌朝、アーヴィンの書斎へ案内されると、大きな机の上には古い地図や書物が並べられていた。彼はコレットが以前送った手帳の写しを取り出し、隣国に残る記録との間にいくつか一致する点が見つかったと説明した。ただし、どれも王家の秘密を証明するには不十分であり、さらに詳しい調査が必要だという。
アーヴィンが最初に見せたのは、王朝交代の直後に書かれた年代記だった。王国の正史では、先王朝は内乱によって滅び、現在の王家の始祖が民を救うために即位したことになっている。
しかし、隣国へ逃れた者たちの記録には、王位を奪うために周到な計画が立てられ、正統な王位継承者が欺かれていたことが記されていた。
特に気になるのは、先王朝の最後の王子についての記述だった。王国では王宮の炎上に巻き込まれて亡くなったと伝えられているが、隣国の記録には、幼い王子が従者に連れられて国境を越えたという証言が残されていたのである。
「私の家にも、その王子に関する記録が残っています」
アーヴィンはそう言って、書棚から古い家系図を取り出した。
そこには先王朝の一族から枝分かれした家々の名が記されており、その一つがアーヴィンの伯爵家へ続いていた。
彼は現在の王家とは血縁関係がなく、数百年前に滅ぼされた先王朝の血を引いているという。ただし、彼の家は王位継承の本流から外れた傍系であり、王位を主張するために記録を調べているわけではなかった。
「最後の王子が本当に生き延びたのであれば、その子孫がどこかにいるはずです。私の家の記録には、王子を逃がした従者の名と、最初に身を寄せた土地までは残っていますが、その後の足取りが途切れています」
コレットは家系図を見つめた。
アーヴィンが王宮で古い紋章について尋ねた理由も、ようやく理解できた。彼は先祖から受け継いだ記録を調べるうちに、現在の王家が伝える歴史と食い違う部分を見つけ、その真偽を確かめようとしていたのである。
「伯爵様は、正統な王位継承者を見つけて、どうなさるおつもりですか」
「まずは、先祖に何があったのかを明らかにしたいと思っています。その上で、正統な血筋が今も続いているのであれば、本人に事実を伝えるべきでしょう。王位を求めるかどうかは、その方が決めることです」
アーヴィンはそう答えたが、コレットには彼がすべてを話しているわけではないように思えた。
先王朝の血を引く者として、現在の王家に対して何も感じていないはずはない。ただ、彼が自分の立場を利用して王位を得ようとしているわけではないことは、その説明からも分かった。
二人は祖母の手帳に描かれていた紋章を確認した。オディールが残した図柄は先王朝の印章によく似ていたが、中央に刻まれた模様が異なっている。
アーヴィンによれば、王家の紋章には本家と分家を区別するための細かな違いがあり、祖母の描いたものがどの家に属するのかは、さらに古い記録を調べなければ分からないという。
コレットは、祖母がなぜその紋章を知っていたのか考えていた。
オディールは聖女として長く王宮に仕えていたが、歴史の研究をしていたわけではない。
手帳に残された記録の多くは、王宮で起きた出来事や聖女としての務めに関するものであり、先王朝の紋章だけが唐突に書き込まれているようにも見えた。
「祖母は、王家の病についても記録を残しています。聖女としての祈祷が増えた時期と、王族の体調が悪化した時期が重なっているのです」
コレットがそう告げると、アーヴィンは別の年代記を広げた。
そこには現在の王家が即位した直後、王宮の一部が長期間閉鎖され、即位したばかりの国王が公の場に姿を見せなくなったことが記されていた。
王国の正史では疫病が流行したためだと説明されているが、隣国に残る記録には、王都の住民や周辺の村々で大規模な感染が広がったという記述がほとんどないらしい。
さらに、王宮の侍医や使用人が相次いで交代し、王族の肖像画が描き直されたという記録もあった。
コレットはその部分を読み返し、祖母の手帳にあった一節を思い出した。
オディールはある年の冬、国王の右手に黒いものが現れたと書き残しており、その後、聖女としての務めが増えて数日間寝込んだことも記していた。当時の国王は、現在の国王の父にあたる人物だった。
アーヴィンは、王家の病と聖女の務めが関係している可能性については認めたものの、まだ断定するには早いと告げた。
王宮の記録が残っていないだけという可能性もあり、祖母の手帳だけでは、聖女が何を引き受けていたのかを証明することはできない。
彼は修道院に残された記録を調べる必要があると考え、院長へ閲覧の許可を求めることにした。
コレットは同行を希望したが、アーヴィンは道の状態を確かめてから日程を決めると答えた。
春先の山道は雪解け水によって崩れやすく、数日前まで続いていた雨の影響も心配だったからである。
話を終えたコレットが客室へ戻ると、机の上に一通の手紙が置かれていた。
差出人は父バルタザールで、家を出た娘がいつ戻るのかを尋ねる内容だった。
聖女の役目を終えたとはいえ、家族としての義務までなくなったわけではないのだから、いつまでも隣国に滞在することは認められないという。 さらに、フィオナが王宮での生活に慣れるまで、姉として手伝うべきだとも書き添えられていた。
コレットは最後まで目を通し、手紙を机へ置いた。父にはすでに離籍届が正式に受理されたことを知らせてあり、家族としての関係が終わっていることも説明している。それでも父は、娘が自分の命令に従うのは当然だと考えているらしい。
返事を書く必要はないと思ったが、後から何か言われるのも面倒だったため、コレットは簡潔な書面を用意した。
離籍の手続きが完了していること、帰国の予定はないこと、今後の連絡については正式な代理人を通じてほしいことを記し、署名した。
翌日、コレットは祖母の遺言書と財産の帳簿をアーヴィンへ見せた。王家の歴史に関する調査とは別の問題だったが、父が長年管理してきた褒章について、不正な支出があることを説明し、隣国から正式な返還請求を進める方法を相談したのである。
アーヴィンは書類を一通り確認すると、王国の法律に詳しい代理人を紹介できると申し出た。祖母の遺言が正式なものであれば、相続権のある財産について返還を求めることは可能だが、すでに処分された土地や事業へ投じられた資金については、別途調査が必要になるという。
「お父上とは、話し合いをなさらないのですか」
「必要ありません。祖母の財産を何に使っていたのか、父はよくご存じのはずですから」
コレットはそう答えた。
父が母オディールの褒章を使い、さらに娘の褒章まで家の財産として扱っていたことは、帳簿を見れば明らかだった。祖母が亡くなったとき、葬儀の費用さえ惜しんだ父に、今さら事情を尋ねるつもりはなかった。
アーヴィンはそれ以上踏み込まず、代理人を手配することを約束した。コレットも、調査に必要な費用は自分で負担すると伝えた。彼女はアーヴィンに協力を求めていたが、自分の問題をすべて任せるつもりはなかったのである。
***
その頃、王宮ではフィオナの体調が思うように回復せず、神殿の長が何度も呼び出されていた。
新聖女となったフィオナは、継承の直後から続く身体の不調を訴え、夜になると胸の奥を締めつけられるような痛みに襲われていた。医師たちは休息を勧めたが、神殿では聖女としての務めを休ませることができず、儀式のたびに彼女の魔力は消耗していった。
ローランはフィオナの様子を見て、最初のうちは心配していたものの、次第に不満を募らせるようになった。
コレットよりも豊富な魔力を持っているはずなのに、なぜこれほど体調を崩すのか理解できなかったからである。しかも、自分の左手に現れた黒い染みは消えるどころか、少しずつ広がり始めていた。
ある日、フィオナが神殿から戻るなり寝台へ倒れ込み、夕食にも出られないと告げると、ローランは不機嫌そうに眉を寄せた。
聖女としての務めを果たすことは当然であり、王太子妃となる者がその程度のことで弱音を吐いていては困るという。
「コレットは五年間も務めていたのだろう。お前の方が魔力は豊富なのだから、もう少し努力すればよい」
フィオナは、ローランのその言葉に驚き、しばらく返事ができなかった。
以前、姉が疲れ果てている横でローランと笑い合っていた頃には、聖女なのだから国のために働くのは当然だと考えていた。しかし、実際に同じ役目を引き受けてみると、努力でどうにかなるものではなかった。眠っていても呪いは流れ込み、魔力を使わなくても身体は消耗していく。姉が夜会で壁際の椅子に座っていた理由も、華やかな衣装を身につけなくなった理由も、今なら分かる気がした。
それでもフィオナは、自分が悪かったとは考えなかった。姉が最初からもっと詳しく教えてくれていれば、こんなことにはならなかったはずだと思ったのである。
ロザムンドは娘の体調が悪いと聞くと、すぐに王宮へ見舞いに訪れた。フィオナが寝台から起き上がれない様子を見てひどく驚き、神殿の医師にもっとよい薬を用意するよう求めた。
しかし、聖女の力による負担を完全に取り除く方法はないと説明されると、今度はコレットを呼び戻せばよいと言い出した。
「お姉様なら、もう慣れているのでしょう。私にはこんなこと、できません」
フィオナは泣きながらそう訴えた。
ロザムンドも娘の言葉に頷き、聖女の役目をもう一度コレットへ戻すよう、夫から神殿へ申し入れてもらうことにした。
バルタザールは妻からの手紙を受け取ると、すぐに神殿へ出向いた。彼は娘が二人とも聖女の適性を持っているのだから、もう一度継承の儀式を行えばよいではないかと主張したが、応対した神官は困惑した様子で首を横に振った。
「一度聖女の力を失った者は、二度と継承できません。コレット様が戻られたとしても、フィオナ様の代わりになることは不可能です」
バルタザールはその説明を聞き、しばらく言葉を失った。
母オディールが聖女を退いたとき、同じ説明を受けていたはずだった。
しかし、当時の彼にとって重要だったのは、若いコレットが聖女となり、王家からの褒章が途絶えずに済むことだけだったのである。
「では、別の適性者を探せばよいだろう。王国中を探せば、一人くらい見つかるはずだ」
神官は、新たな適性者が見つかったとしても、本人が自発的に同意しなければ継承は成立しないと説明した。
バルタザールは王家が命じればよいではないかと主張したが、強制された誓約では聖女の力が移らないという規則は変えられなかった。
神殿から戻ったバルタザールは、ロザムンドへ事情を説明した。
母は神殿の規則が間違っているのではないかと疑い、別の神官にまで問い合わせたが、回答は変わらなかった。
フィオナも姉が自分を助けたくないために嘘をついているのではないかと訴えたが、神殿の記録には、継承の際に必要な説明を受け、本人が自発的に誓約したことが明記されていた。
その頃、国王の身体にも異変が現れ始めていた。左手の指の付け根に黒い鱗が浮かび、夜になると骨の形が変わるような痛みに襲われる。侍医は原因を説明できず、魔術師たちも治療の方法を見つけられなかった。
国王は神殿の長を私室へ呼び出し、新しい聖女が何をしているのかと問い詰めた。
歴代の聖女は皆、王家に異変が現れないよう務めてきたのであり、オディールもコレットも役目を果たしていた。それなのに、なぜフィオナだけができないのかというのである。
神殿の長は、聖女の力を受け継ぐことと、その力を使いこなすことは別だと説明した。
呪いは継承によって新聖女へ流れ込むが、それを自分の身体に留め、王家への影響を抑え続けるには相応の技術と忍耐が必要になる。歴代の聖女は長い年月をかけてその方法を身につけてきたものの、フィオナは継承前に十分な修練を受けていなかったのである。
国王は先代聖女に指導させればよいと命じたが、コレットはすでに国外へ出ており、神殿からの正式な指導要請にも応じていなかった。
聖女の力を失った以上、王宮に仕える義務もなく、強制的に呼び戻すことも容易ではない。
国王は不愉快そうに眉を寄せた。
王家の保護を受けてきた娘が、役目を終えた途端に国外へ出ていくとは何事か。父親に命じて連れ戻せばよいと考えたが、バルタザールからは、コレットがすでに離籍届を提出し、ヴァルディス家との関係を断っていたとの報告が届いていた。
聖女の地位を失い、王太子との婚約も解消された以上、彼女を王宮に留め置く理由はなく、父親の権限で帰国を命じることもできない。
国王は、これまで従順だった娘がそこまで周到に準備していたことに苛立ちを覚えたが、聖女の継承と婚約解消を認めたのは王家自身であり、手続きに不備がない以上、表立って異議を唱えることもできなかった。
それでも、コレットには呪いを抑える方法についての知識があるはずだった。国王は、必要ならば相応の報酬を与えてでも帰国させるよう命じた。
神殿の長は深く頭を下げたものの、その表情は暗かった。新しい聖女の身体がすでに衰弱し始めていることも、ローランの左手に国王と同じ異変が現れていることも、彼は知っていたからである。
***
その頃、アーヴィンの伯爵家には修道院から閲覧許可の知らせが届いていた。
院長は古い記録の調査に協力することを承諾し、王朝交代の頃に保管された文書を閲覧できるよう準備を進めているという。
アーヴィンはその知らせをコレットへ伝え、数日後に修道院へ向かう予定を確認した。コレットは祖母の手帳を開き、調べたい箇所に印をつけながら、必要な書類をまとめた。
祖母が何を知り、何を恐れていたのか、まだ分からないことは多い。しかし、聖女として八年間を過ごした彼女には、王家が隠しているものについて、確かめなければならない理由があった。
コレットは手帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。伯爵家の庭には春の花が咲き始めており、遠くの丘にはまだ雪が残っていた。
修道院で何が見つかるのか、今は分からない。
ただ、祖母が遺した記録を最後まで調べることだけは、すでに決めていた。
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