第一話
王太子ローランが妹の腰を抱き寄せたのは、コレットが三時間に及ぶ祈祷を終え、ようやく神殿から戻ってきたときだった。
王宮の小広間では翌週の祝祭に向けた打ち合わせが行われており、コレットの前には儀式の進行表と、神殿から届けられた書類が積み重ねられていた。朝から何も口にしていないせいか、文字を追っているうちに何度も視界が霞んだが、王妃から夕刻までに準備を整えるよう命じられている以上、途中で仕事を投げ出すわけにはいかなかった。
「ローラン様、こちらの首飾りと、先ほどのものでは、どちらが似合うと思われます?」
フィオナは姉の机から数歩しか離れていない長椅子に腰を下ろし、胸元へ宝石を当ててみせた。
ローランは書類に目を通しているコレットを一瞥した後、妹の隣へ座り、淡い桃色の石がよく似合うと褒めた。
フィオナが嬉しそうに笑うと、彼はその手を取って指先に口づけ、今度は耳元へ顔を寄せて何かを囁いた。二人の笑い声は、静かな小広間によく響いた。
コレットは羽根ペンを置き、滲んだ文字を書き直した。ローランは自分の婚約者であり、フィオナはその妹である。
以前なら二人の親密な様子を見れば胸が痛んだものだが、今では、書類を汚さずに済んだことの方がありがたかった。
祈祷の後は指先が震えることが多く、細かな文字を書くのにも普段の倍ほど時間がかかる。
神殿から戻ったときに少し休ませてもらえればよいのだが、王宮では聖女の仕事が終わると、そのまま王太子妃としての務めが待っていた。
「お姉様、少しは休まれたら? そんな顔で祝祭に出られたら、殿下まで恥をかいてしまうわ」
フィオナは心配そうな口調で言ったが、ローランの腕に自分の腕を絡ませたままだった。
コレットがまだ準備を終えていないと答えると、妹は困ったように笑い、昔から何をするにも時間がかかるのだから仕方がないと付け加えた。
「フィオナはお前よりずっと器用だというのに、姉妹でもこうも違うものなのだな」
ローランはそう言って、妹の髪を指先で梳いた。
フィオナは頬を染め、殿下がお褒めになるほどではありませんわと答えたが、その目はコレットへ向けられていた。姉がどのような顔をするのか、確かめたくて仕方がないらしい。
「殿下、祝祭の進行について、確認していただきたい箇所がございます」
コレットが書類を差し出すと、ローランは露骨に顔をしかめた。せっかくフィオナと過ごしているのだから、細かなことは神官に任せればよいという。
コレットは、王太子の承認が必要な箇所だけをまとめてあると説明したが、彼は書類を受け取ろうともせず、夕食までに執務室へ届けるよう命じた。
「それくらい自分で判断できないのか。聖女となって何年になると思っている。いつまでも人を頼っていては困るぞ」
「承知いたしました。」
コレットは返事をして書類を引き戻した。
承認が必要だと定めたのは王家であり、彼女が勝手に決められるものではなかったが、説明したところで機嫌を損ねるだけだろう。
ローランはすでにフィオナへ向き直り、今度の祝祭ではどのような衣装を着せようかと楽しそうに相談していた。
そのとき、控えの間から侍従が現れ、隣国の外交使節が到着したことを告げた。
ローランはフィオナを伴って迎えに向かおうとしたが、使節の一人が古い儀式の記録について確認したいと申し出ていると聞くと、コレットに対応を命じた。
自分は重要な客人をもてなす必要があるのだから、聖女に関する細かな質問くらい答えられるだろうという。
使節として現れたのは、アーヴィン・フォン・ローゼンベルク伯爵家の者だという青年だった。
隣国の国境地域に領地を持つ貴族で、外交に関わる仕事のほか、先祖から受け継いだ古い文書の整理も行っているという。年齢はコレットより少し上に見えたが、落ち着いた物腰で、華やかな王宮の貴族たちとはどこか雰囲気が違っていた。
アーヴィンは、王国の祝祭で用いられる祈祷文について質問した。
現在使われている文言と、隣国に残る古い記録とでは、一部の表現が異なっているらしい。
コレットは書棚から儀式書を取り出し、該当する箇所を示した。彼は彼女の説明を遮らず、必要なところだけを尋ね、手元の記録と照らし合わせていた。
話を進めるうちに、アーヴィンは一つの古い紋章について尋ねた。
現在の王家が即位する以前に使われていたものだというが、コレットには見覚えがあった。
祖母オディールの書き物机に、よく似た図柄が描かれた紙片が残されていたのである。ただし、祖母が何のために保管していたのかは知らず、コレットもそれ以上のことは答えられなかった。
「もし後日、何か分かることがございましたら、お知らせいただけますか」
アーヴィンはそう申し出たが、コレットはすぐには約束しなかった。
祖母の私物について、本人の許可なく他人へ話すことは避けたかったからである。彼もその事情を理解したらしく、無理に尋ねることはせず、代わりに自分の連絡先を記したメモを差し出した。
「先ほどのお話にあった古い紋章について、もし何かお分かりになればお知らせください。それから、私にできることがあれば、遠慮なくご連絡を。何かあればお力になります」
コレットは紙片を受け取り、丁寧に礼を述べた。
隣国の伯爵が自分に何をしてくれるというのか、当時は想像もつかなかったが、彼が王太子の婚約者でも聖女でもなく、一人の人間として自分に接してくれたことは、妙に印象に残った。
それからコレットは、その紙片を祖母の手帳に挟んで保管していた。祖母の遺品を調べるうちに、王家の歴史について確かめたいことが増えたとき、最初に思い出したのがアーヴィンの言葉だったのである。
その日の夕刻、コレットは王妃から呼び出され、祝祭の準備について報告した。
神殿での祈祷が予定どおり進んでいることを説明した後、翌日の儀式については身体の回復が必要なため、開始時刻を少し遅らせてほしいと申し出た。
しかし、王妃は不満そうに眉を寄せ、聖女としての務めを果たすために十分な待遇を受けているのだから、もう少し努力するべきだと告げた。
国王も同じ考えだった。
歴代の聖女は皆、王国のために尽くしてきたのであり、若いコレットがそれに劣る理由はないという。王家が与えている褒章の額を考えれば、多少の苦労は当然であり、体調管理も聖女自身の責任だと叱責された。
コレットはそれ以上何も言わず、予定どおり儀式を行うと答えた。
王家から支払われる褒章の大半を父バルタザールが管理しており、彼女自身が自由に使える金はわずかだったが、国王も王妃もそのような事情には関心を持たなかった。
屋敷へ戻った頃には夜も更けていた。
玄関で出迎えた家令はコレットの顔色を見て侍女を呼んだが、居間にいた母ロザムンドは、娘が椅子へ腰を下ろすなり、もう少し姿勢を正すよう注意した。王太子の婚約者なのだから、家の中でも見苦しい姿を見せてはならないという。
父バルタザールも、娘の体調より王宮での評価を気にしていた。
国王から何か注意を受けなかったか、褒章の支払いに影響するような問題は起きていないかと尋ね、コレットが予定どおり務めを果たしたと答えると、ようやく満足したようだった。
「それなら結構だ。お前は聖女として十分な待遇を受けているのだから、多少の苦労は我慢しなさい。フィオナを見てみろ。あの子は殿下のお気に入りだというのに、少しも驕ったところがない」
ロザムンドも頷き、フィオナは明るく愛らしく、誰からも好かれる娘なのに、コレットは昔から陰気で、聖女になってからはますます人付き合いが悪くなったと口にした。
王太子が妹と過ごすことを好むのも無理はないという。
フィオナは母に寄り添いながら、姉も少しは笑うようにした方がよいと勧めた。
殿下は暗い顔をした女性がお嫌いなのだから、もっと努力すれば婚約者として大切にしてもらえるかもしれないという。
コレットはその言葉を聞きながら、手袋の下で指先が震えているのを感じていた。
朝から続いた祈祷と王宮での公務によって、身体はすでに限界に近かったが、父も母もそれに気づかず、フィオナは姉が黙っていることを、自分に言い返せないためだと思っているようだった。
祖母が生きていた頃なら、コレットはそのままオディールの部屋へ向かっただろう。
何も言わなくても、祖母は孫娘の顔を見ただけで体調が悪いことに気づき、温かい薬草茶を用意してくれた。王宮でどのようなことがあったのか、無理に尋ねることもなく、ただそばにいてくれた。
しかし、祖母は三年前に亡くなっていた。
***
祖母オディールは、長く王国の聖女を務めた人だった。
王家から与えられる褒章は莫大で、ヴァルディス家が領地の収益に見合わない贅沢な暮らしを続けられたのも、そのおかげである。バルタザールは幼い頃から母の褒章によって育てられ、ロザムンドも嫁いで以来、何不自由なく暮らしてきた。
祖母が夜ごと苦痛に耐えている間も、屋敷には新しい調度品が運び込まれ、母は季節ごとに衣装を仕立て、父は王宮とのつながりを誇らしげに語っていた。
祖母が衰弱して寝台から起き上がれなくなった頃、父が神殿へ問い合わせていたのは、聖女が亡くなった場合に褒章がいつまで支払われるかということだった。
母は病人の部屋に漂う薬草の匂いを嫌い、フィオナは祖母が自分よりコレットを可愛がることを不満に思って、ほとんど見舞いに来なかった。
当時十六歳だったコレットは、祖母の苦しみを終わらせることしか考えていなかった。神殿で聖女の適性を認められたとき、自分にも祖母を助ける力があるのだと喜び、すぐに継承を申し出た。オディールは最後まで反対し、孫娘にはまだ長い人生があるのだから、自分のためにそれを犠牲にしてはならないと訴えたが、コレットは聞き入れなかった。
聖女の継承に必要なのは、新たにその役目を引き受ける者の自発的な同意だけだった。
前任者が反対しても儀式は成立し、一度力を失った者は二度と聖女になれない。神官からその説明を受けたとき、コレットはむしろ安心した。
祖母が再び苦しむことはないのだと思ったからである。
儀式の翌朝、祖母の腕から黒い痣が消え、代わりにコレットの左腕へ細い紋様が浮かんだ。
オディールはそれを見るなり泣き出したが、コレットは祖母の手を握り、もう大丈夫だからと笑っていた。
それから数年、コレットは聖女としての務めを果たし続けた。
祖母は継承から数年後に亡くなったが、最後まで孫娘の身体を案じていた。亡くなる少し前には、いつか聖女の役目を譲る日が来たら、今度こそ自分のために生きるようにと告げ、書き物机の鍵を渡してくれた。
祖母の葬儀で、父は費用を惜しみ、母は喪服の仕立てを気にし、フィオナは茶会を延期することになったと不満を漏らした。
コレットはそのとき、祖母が守ろうとしていた家族の姿をようやく理解した。祖母が生きている間は、息子である父を悲しませたくないという思いから争いを避けていたが、もはやその必要はなかった。
遺品を整理するうちに、コレットは王家から支払われた褒章の帳簿と、祖母が残した正式な遺言を見つけた。
父が家の財産として扱っている土地や屋敷の一部は、祖母個人の褒章によって取得されたものであり、さらにオディールは聖女として得た財産のうち一定のものをコレットへ相続させると定めていた。
コレットはすぐには何もしなかった。
祖母を失った悲しみが薄れるにつれ、父と母がどのような暮らしを続け、何を当然の権利として扱っているのか、以前よりも冷静に見られるようになったからである。
その後、彼女は家族に対して従順な娘であり続けた。母が高価な宝石を買っても注意せず、父が新しい事業に投資すると聞いても口を挟まなかった。フィオナが王宮へ出入りする回数を増し、ローランと親しくなっていることを知っても、問いただすことはなかった。
妹は幼い頃から、美しいものや人から向けられる好意を独り占めしたがる娘だった。
コレットの髪飾りを欲しがれば父母が譲るよう命じ、姉が褒められれば自分の方が優れているところを探して見せた。
祖母がコレットを可愛がることも気に入らなかったらしく、オディールが病床に伏せってからは、ますます近寄らなくなっていた。
そのため、フィオナは聖女の本当の務めを知らなかった。
彼女が知っているのは、聖女が王家から手厚く保護され、民から敬われ、原則として王族と婚姻する特別な存在だということだけだった。姉が年々衰えていくのも、もともと身体が弱く、魔力も乏しいからだと思っていたのである。
フィオナは当初、ローランの側妃になるつもりだった。
聖女は魔力を消耗するため子を授かりにくいと聞いており、自分が王太子の子を産めば、正妃となる姉よりも王宮で重んじられると考えていたらしい。
しかし、ローランの寵愛を得るようになっても、正式な婚約者はコレットのままだった。王宮の儀式では姉が上席に置かれ、民から聖女として敬われるのも姉である。
やがてフィオナは、側妃ではなく正妃になりたいと言い出し、さらには聖女の地位まで欲しがるようになった。
母からその話を聞かされたコレットは、妹が本当に聖女の役目を引き受けるつもりなのかと尋ねた。
ロザムンドは、姉の負担を代わってやろうという妹の優しさを喜ぶべきだと答えた。
父も同じ考えで、若く美しいフィオナが聖女となり、王太子妃にもなれば、ヴァルディス家の地位はこれまで以上に確かなものになると期待していた。
コレットは妹に、神殿の記録を読むよう勧めた。聖女の役目には苦痛が伴い、魔力を失い続けることも説明したが、フィオナは姉が地位を譲りたくないために大げさなことを言っていると受け取ったようだった。
それ以上、コレットは説得しなかった。聖女の責務については神殿に記録が残されており、継承の際には正式な説明も行われる。
妹が本当に望むのであれば、いずれ自分の意思で誓約することになるのだから、姉が代わりに決めてやる必要はない。
一方、コレットは祖母の遺品に残された記録を調べるため、以前王宮で出会ったアーヴィン伯爵へ書簡を送っていた。
祖母の手帳には、財産の記録とは別に、王宮で起きた出来事について奇妙な記述が残されていた。国王の体調、聖女として引き受けた呪いの変化、王朝交代の頃に使われていた古い紋章。最初は意味が分からなかったが、隣国に残る史料と照らし合わせるうちに、コレットは祖母が何かを調べていたのではないかと考えるようになった。
アーヴィンは調査への協力を申し出たが、その理由について詳しく語ろうとはしなかった。コレットもまた、祖母の遺品から見つけたものをすべて明かしたわけではない。互いに確かめなければならないことがあり、それぞれの目的のために協力している関係だった。
ローランが婚約破棄を告げる祝宴の数日前、アーヴィンから一通の手紙が届いた。
そこには、依頼していた調査について、いくつかの裏づけが得られたことが記されていた。
コレットは返書を書き、封蝋を押した後、机の引き出しから別の書類を取り出した。
婚約が解消された場合に必要となる離籍の手続きについて、すでに調べてあったのである。
祝宴の席で、ローランはコレットとの婚約を解消し、フィオナを新たな婚約者として迎えたいと宣言した。
理由として挙げられたのは、コレットの健康状態と魔力の衰えだった。王太子妃には相応の公務を果たす能力が求められるが、現在の彼女にはそれが期待できないという。
コレットは異議を唱えなかった。
婚約の解消に必要な手続きを確認し、父が王家との協議を引き受けることになったところで、フィオナが聖女の継承を願い出た。
「お姉様には、もう十分に国へ尽くしていただいたもの。これからは私が、その役目を引き受けたいのです」
妹の言葉に、集まった貴族たちは感心したように頷いた。
母は感極まった様子で目元を押さえ、父も誇らしげに胸を張っていた。ローランはフィオナの手を取り、彼女なら立派な聖女になれるだろうと称えた。
コレットは妹の顔を見た。
フィオナは、幼い頃に姉の髪飾りを欲しがったときと同じ顔をしていた。自分が望めば必ず手に入ると信じている、あの屈託のない笑顔である。
「本当に、あなた自身の意思なのね」
「もちろんよ。お姉様こそ、今さら惜しくなったのではなくて?」
コレットは首を横に振り、神殿で正式な適性検査を受けるよう勧めた。フィオナは喜んで承諾し、ローランも国王への奏上を引き受けた。
その夜、屋敷へ戻ったコレットは、婚約解消に関する書類を確認した。
王家からの正式な通知が届き次第、離籍の手続きを進められるよう、必要な証明書も揃えてあった。
祖母が生きていた頃なら、家を出ることなど考えなかっただろう。しかし、今のヴァルディス家に、コレットが残る理由はなかった。
フィオナの聖女としての適性が正式に認められたのは、それから一週間後のことだった。神殿から継承に関する書類が届けられ、儀式の日取りも決まった。
継承の当日、フィオナは純白の祭服に身を包み、王家から贈られた宝石を髪に飾っていた。コレットが五年前に着せられた簡素な祭服とは、ずいぶん違っていたが、妹はそれを当然の待遇だと考えているようだった。
神官は儀式に先立ち、聖女の責務について説明した。
国を守るために魔力を捧げ続けること、身体に相応の負担がかかること、次の継承者が現れるまで役目を離れられないこと。
そして、一度聖女の力を失った者は、二度と継承できないこと。
フィオナは最後まで聞いていたものの、説明が終わるとすぐに頷いた。
「承知しております。私の意思に変わりはありません」
神官は誰かに強制されたものではないかと改めて確認したが、フィオナは自分が望んだことだとはっきり答えた。ローランも両親も、その様子を満足そうに見守っていた。
誓約が終わると、祭壇の中央に置かれた石が淡い光を放った。
コレットは胸の奥に長く居座っていた重苦しい感覚が、ゆっくりと遠ざかっていくのを感じた。
左腕の黒い紋様が薄れ、指先に温かさが戻る。痛みが消えたというよりも、痛みのない身体がどのようなものだったのか、少しずつ思い出していくようだった。
フィオナの腕には、新たな紋様が浮かんでいた。
妹は驚いた様子だったが、神官から継承の証だと説明されると、すぐに機嫌を直した。
ローランが新しい聖女の手を取り、両親が祝福の言葉を述べる。神殿には鐘が鳴り響き、フィオナの新たな門出を祝っていた。
コレットは静かに祭壇を下りた。
これで聖女としての役目は終わった。失った魔力は戻らず、二度と聖女になることもできないが、それを惜しいとは思わなかった。
神殿を出ると、冷たい風が頬に触れた。
コレットは久しぶりに深く息を吸った。胸が痛まないことが、こんなにも心地よいものだったとは思わなかった。
祖母を救うために聖女となったことを、彼女は後悔していない。ただ、祖母と自分が支払った代償によって何不自由なく暮らしてきた人々が、今度はフィオナが同じ役目を引き受ければ、これまで以上に豊かな暮らしができると信じていることには、もはや何の感慨もなかった。
屋敷へ戻ったコレットは、婚約解消の正式な書類を受け取ると、準備していた離籍届を提出した。
手続きが受理されたことを確認し、祖母の遺品と必要な書類をまとめて、隣国へ向かう馬車を手配した。
父には出立を知らせる手紙を残したが、返事を待つつもりはなかった。
見送りに出たのは、長くコレットに仕えていた侍女と、祖母の代から屋敷に勤めている年老いた家令だけだった。
家令は馬車の扉を閉める前に、小さな包みを差し出した。中には、オディールが生前好んでいた焼き菓子が入っていた。
「旅の途中で、お召し上がりください」
コレットは礼を言って受け取った。
祖母が亡くなってから、屋敷でその菓子が出されることはなくなっていた。母が好まなかったため、厨房の献立から外されたのだという。
馬車が動き出すと、コレットは窓から屋敷を振り返った。生まれ育った場所ではあったが、離れることに寂しさは感じなかった。祖母の部屋がなくなった時点で、あの屋敷にはもう帰りたいと思える場所が残っていなかったのである。
国境へ向かう街道は、冬の終わりを告げる淡い日差しに照らされていた。コレットは包みを開き、焼き菓子を一つ口にした。祖母が好きだった、蜂蜜と香草の香りがした。
彼女はその味をゆっくり確かめながら、膝の上に置いた鞄へ目を落とした。中には祖母の手帳と、アーヴィンから届いた古い史料の写しが入っている。
その史料には、現在の王家が即位する以前、王国を治めていた一族について記されていた。王国の正史では、先王朝は内乱によって滅び、現在の王家の始祖が民を救うために即位したことになっている。しかし、隣国に残された記録には、まったく異なる経緯が書かれていた。
コレットはまだ、そのすべてを確かめたわけではない。ただ、祖母が聖女として長年引き受けていた呪いと、王家が隠してきた歴史との間に、何らかの関係があることは疑っていた。
馬車が国境へ近づく頃、王宮では新聖女フィオナのために盛大な祝宴が開かれていた。国王も王妃も彼女を歓迎し、ローランは美しい婚約者を誇らしげに紹介していた。バルタザールとロザムンドも、娘の栄誉に満足していたという。
祝宴が終わる頃、ローランは左手の甲に小さな黒い染みができていることに気づいた。虫に刺されたのだろうと考え、侍医を呼ぶほどのことではないと放置したが、翌朝、その染みは爪の付け根にまで広がっていた。
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