第九章 釣り
薬を飲んだおかげで、ぐっすりと熟睡できた。母さんが僕を起こしにきた時も、かなりの苦労をかけたほどだ。
仕方がない、この薬の催眠効果はそれほどまでに強力なのだ。だからこそ僕は重宝しているのだけれど。
それに今の僕は三十五歳(の精神)だ。たかが一本の電話くらいで、昨日のように大パニックを起こして頭を混乱させるような真似は二度としない。いまの僕は、すっかり正気を取り戻している!
策なら、ある。
それはいわゆる「放長線釣大魚(放長線釣大魚=焦らず気長に犯人を追い詰める)」というやつだ。登校した時に露骨に動揺した素振りを見せてしまっては、相手にこちらの隙を突かれてしまう。
僕はこれから、思う存分この青春キャンパスライフを楽しむことにするのだ!
「おはよう、小玉」
「あら、未来人さん、おはよう」
まずはごく普通に挨拶を交わす。
他のクラスメイトのことはまだよく知らないので、挨拶のしようもない。
……待てよ、僕のあだ名は昨日の一件で「オタク華」から「未来人」へとあっさり改名されてしまったのだろうか?
「ねえ、昨日途中で帰っちゃって申し訳なかったんだけど、このクラスの他の人たちの名前、教えてくれないかな?」
「なんだか雰囲気がガラッと変わったわね。じゃあ、まずは座席表を見せてあげるわ」
今日から僕は「明るく微笑むお面」を被ることにした。学校にいる間くらいはうつ病とサヨナラして過ごしたい。うまくいくといいのだけれど。
「うん。いまの僕はただの高校二年生だからね。未来人じゃないんだから、高校生らしく振る舞わなくっちゃ」
「へえー、今日からはそういう設定で行くのね。未来人さんはやっぱりすごいや」
彼女が僕の言葉を真に受けていないような気もするけれど、まあいい。とにかくこの路線を貫き通せばいいのだから。
「ねえ、未来人さん。あなた昨日、身心科(精神科)の外来を受診したって本当?」
僕の左側の席に座っている男子生徒が話しかけてきた。座席表を確認すると、彼の名前は黃洛哲。メガネをかけていて、いかにも頭の切れそうな雰囲기를漂わせている。
「そうなんだよ。山ほど薬を処方されちゃってさ。昨日の僕は本当に頭がおかしくなってたみたい、ははは」そう言って僕は乾いた笑いを浮かべて見せた。
前の席の生徒は巫錦俊、後ろの席は陳德儀。当面はこの狭い人間関係の輪(小圈圈)の面々さえ把握しておけば十分だろう。
この時期の陳逸樺(陳逸樺)は、理系+文系(第三類組)の6組にいるはずだ。彼女が文系クラスへ転修してくるのは来学期になってからの話だ。
そう思いを馳せていた矢先、突然背後から誰かに首を抱きすくめられた。
「だーれだ?」女の子の声だ。
「僕、記憶喪失だから分かるわけ……」
「あ、そっか。昨日、高二全体で『1組に未来人がいる』って噂が持ちきりだったけど、あなただったのね」
「で、君は誰なのさ。いじめないでよ」僕が彼女の手を解くと、心の中ではその主が誰なのか痛いほど分かっていた。僕にこんな突飛なスキンシップを仕掛けてくるのは、世界中で彼女しかいないのだから。
彼女の性格はまさにそんな調子で、男女間で本来保つべきパーソナルスペースなんてお構いなしだった。そのせいで僕はこれまで散々振り回されてきた。まるで作り話のフィクションみたいな奴だけれど、これがあいつの現実なのだ。周りの人間も思わず「信じられない」と呆れるほどの特異な個性の持ち主だった。
「ううっ、ひどーい! 本当に私のこと忘れちゃったの?」
振り返ると、目の前にはあの見慣れた愛くるしい顔立ち——陳逸樺が立っていた。
「うん、本当に忘れちゃったんだ」僕の心臓は裏切り者のようにトントンと激しく鼓動を打っていた。
「私は陳逸樺だよ、オタク華。本当に忘れちゃったの?」
「うーん……なんとなく聞き覚えがあるような、ないような」
「うわぁ、ショック! 高一の時、夜の日本語クラスでせっかく再会できたっていうのに」
「えっ、僕、高一の時に日本語クラスなんて受けてたっけ?」
「そうだよ! 学校が開講してる夜の選択授業。あなたが私の前の席に座ってて、私から先に声をかけたの。すっかり忘れちゃってるんだね。今日の夜も授業があるんだよ?」
「ああああっ! 小学校の時に同じクラスだったあの陳逸樺!?」
「やっと思い出してくれた! あなたって未来でどんだけ私と連絡取ってなかったわけ!?」
「えーっと……絶望的なまでに長い間、かな。どれくらい連絡してなかったかも思い出せないレベルだよ」
周りのクラスメイトたちはすっかり呆然としていた。まさか「未来人」と呼ばれている怪しげな男に、他クラスのこんな美少女が抱きついてくるなんて夢にも思わなかったのだろう。それなのに平然と受け流している僕の姿が不可解に見えたに違いない。
「ねえ、私の誕生日の時も『おめでとう』って言ってくれなかったの?」
「えっ……だって君の誕生日がいつなのか知らないもん」……待てよ。この時期の彼女は、まだ僕に誕生日を教えていなかったはずじゃなかったか? なぜそんな聞き方をすんだ?
「あなたと十日しか違わないじゃない! 十日だよ!? 私はあなたの誕生日が8月7日(87)だって覚えてるのに! 私は8月17日(817)だよ!」
「あ、君、いま僕のこと『バカ(87)』って遠回しにディスったでしょ!」
「言ってないよ! あなたの誕生日が覚えやすすぎるのが悪いの!」……僕だって、こんなに早い段階で彼女に誕生日を教えた記憶なんてこれっぽっちもないぞ?
「う、うん……まあいいや……」
「あなたって本当に未来から来たの? なんだか過去から未来へすっ飛ばされてきたみたいに見えるけど」
「だから本当なんだって。過去の記憶を全部失っちゃったんだよ」
……よし、ここからは僕のターンだ。攻勢に転じるとしよう。
「君は今、何組なの?」
「6組だよ。第三類組(理系+文系)を選んだの」
「生物まで勉強しなきゃいけないなんて大変だね。1組に転校(転班)してくればいいのに。文系(一類)の方がずっと楽だよ?」
「まあね……昨日教科書をもらってパラパラめくってみたんだけど、ちょっと後悔しちゃった。覚えることが多すぎるし、私には向いてない気がする。親に言われて選んだだけだしね」
「僕は説得するのにめちゃくちゃ苦労して、ようやく文系を選ばせてもらったんだよ。君の親のことも説得してあげようか?」
「いいよ、とりあえず向こうで授業を受けてみて、本当に無理そうなら転班するから」
その時、朝会(朝のホームルーム)のチャイムが鳴り響いた。僕は彼女に急いで自分の教室へ戻るよう促した。
教科書をパラパラとめくってみる。うん、何ひとつ覚えていない。どうやら僕の二度目の高校生活は、想像以上に学び直しの多い充実したものになりそうだ。けれど、脳の容量オーバーを防ぐためには、元の世界線でのどうでもいい記憶を少し切り捨てなければならないかもしれない。
……それにしても、さっき陳逸樺が口にした言葉が引っかかる。
第一に、僕が彼女の誕生日を知っている前提で話してきたこと。
第二に、なぜ彼女が僕の誕生日を知っていたのかということ。
第三に——これが最大の疑問なのだが——なぜ彼女は僕が「1組」にいることを知っていたのだろう? 昨日は彼女と顔を合わせることなく早退したはずだ。仮に「未来人」の噂が彼女の耳に届いていたとしても、それは「1組に奇妙なやつがいる」というレベルの情報にとどまるはずだ。
第四に、これも重要だ。さっきの会話から察するに、彼女とは小学生時代にも同級生だったのだから、彼女は僕の自宅の電話番号(連絡先)を知っているはずだ。
……怪しい。容疑が一気に跳ね上がった。
「ねえ、未来人さん。さっきの可愛い子は誰なの?」隣の黃洛哲が尋ねてきた。
「小学校の時の同級生……かな? 高一の時も同じ学校だったのかな。学校の夜間日本語クラスで再会したんだよ。『再会』って言葉が正しいのか分からないけど、小学校からの知り合いで、高校で偶然同じ学校になったんだ。……あ、そういえば君のこと、なんて呼べばいい?」
「『ハンサム(帥哥)』って呼んでくれればいいよ。盛ってないから」
「盛ってるだろ! ハンサム(帥哥)と言えば俺のことだ!」後ろの陳德儀が不満の声を上げた。
「じゃあ俺のことは『ハンサム二号』で」
「『ア哲』でいいよ、気にするな」
「あ、うん。ア哲ね」
「ちぇっ、ハンサムが口挟むんじゃねえよ。じゃあお前のことはこれから『未来人』って呼ぶからな」
「まあいいよ、好きにしな。僕は未来から来た人間なんだからさ。もう高校部全体に噂が広まってるんだろ?」
「そうだよ! 昨日なんて大勢のやつらが1組の未来人がどんなツラしてるのか見に来たんだからな。お前が早退しちゃってて拍子抜けしてたけど」
「ウケる」
僕たちは三人で顔を見合わせて笑い合った。
もしかすると、この時空への旅は、僕のあの暗く汚濁に満ちた過去を塗り替えてくれるのかもしれない。
二日目にして、僕はすでに隣の席の三人組と良好な関係を築くことができたのだ。元の世界線とはまるで違う展開だ。
……けれど朝会が終わり、小テストの解答用紙が配られた瞬間、僕は再び現実の壁にぶち当たることになった。
あの忌々しい「英語」だ。なるほど、英語のような基本教科はクラス替え(転班)があろうとなかろうとテストから逃れられない代物なのだ。その上、担任が英語教師なのだからタチが悪い。ちっ、面倒くさいな。
解答用紙を破り捨てたいという衝動的な怒りを必死で抑え込む。僕は英語のテスト用紙を目にするだけで、それをビリビリに引き裂きたくなる欲求に駆られるのだ。これはもう脳の奥底に刻み込まれた習性のようなものだった。
未来の僕は洋画(英語映画)を山ほど鑑賞してきたから、英語に対する最低限の「語感」くらいはあるはずだ。日本語とは雲泥の差があるけれど、多少は取れるはず……とテスト用紙を凝視してみたものの、並んでいるのは見知らぬ単語ばかりだった。
前言撤回。僕が観てきた映画の台詞なんて、右の耳から左の耳へ吹き抜けていくだけの代物だったのだ。まさに「羽扇綸巾、談笑する間に、檣櫓灰飛煙滅す(羽扇を手に優雅に談笑している間に、敵船はあっけなく灰燼に帰した)」といった有様だ。
不定詞だの接続詞だの、for、and、to、orといった品詞に至っては、完全に「感覚(語感)」だけを頼りに穴埋めするしかなかった。文法のルールなんて綺麗さっぱり忘れてしまっていたからだ。
まあ、最初の一回目の小テストだ。大したことじゃない。
三十間の試験時間が終了すると、担任がすぐさま教室に入ってきた。
「前後で答案用紙を交換して採点!」
僕の前の席に座る巫錦俊と用紙を交換した。……彼の回答と僕の回答がほぼ全滅レベルで一致していないことに気づき、僕は血の気が引く思いがした。やばいぞ……。
「第一大問、B、B、C、C、D」……久しぶりに「D」を「猪(ジュー=台湾でDを識別しやすくするための発音)」と読むのを聞いた。なんだか懐かしい響きだ。
あっという間に採点が終わった。見れば、この巫錦俊という男も相当な数を間違えており、点はかなり散々なものだった。
けれど、交換した自分の用紙が手元に戻ってきた瞬間、僕はそこに書かれた点数を二度見した。……なんと、僕の方が彼よりも点数が高かったのだ。こいつ、高校で一体どんな勉強をしてきたんだ?
「未来人、お前は何点だった?」
まさか担任から指名されるとは思わなかった。しかも教師の口から「未来人」なんて呼ばれるなんて。「ただの高校二年生として扱う」って約束したじゃないか、先生! それはないでしょう!
「先生、報告します。僕の名前は施懷華です。未来人ではありません。点数は60点でした」
「そんなに高いのか? 高一の時は毎回30点以下だったというのに。……まさか未来で英語の特訓でもしてきたのかね? それともカンニングか? 隣の席のを盗み見たんじゃないだろうな?」
「先生、そういう言い方は僕の人格に対する侮辱ですよ。僕をただの高校生として扱うと約束したんですから、先生も教師としての役割をしっかり果たしてください。この点数はですね、未来の僕が洋画を愛読していたおかげで、自然と耳が慣れていた(耳濡目染)成果なんですよ」
なるほど、高一の時もこの先生に教わっていたのか。だから僕の落ちこぼれぶりを鮮明に記憶していたのだな。それなら納得だ。
「ふむ、今日の態度は良しとしよう。なら私もこれから君をただの高校生として扱ってあげることにするよ」
……なんだ、さっきのは僕の態度を試すテストだったのか。胸くそ悪いな。
僕は不機嫌な感情を隠さず顔に出し、あえて先生に見せつけるように眉をひそめた。
駄目だ、三十五歳の感情を十六歳の肉体に持ち込んじゃいけない。身体に毒だし、また昨日のような情緒不安定を起こしてしまう。
僕は即座に「微笑みの仮面」を被り直し、ニッコリと口角を上げてみせた。
先生は狐につままれたような顔で僕を見つめていた。
どうやらこの世界線でのスタートダッシュでやりすぎてしまったらしい。すっかり担任マークされてしまった以上、これからの英語の授業で居眠りすることは不可能になってしまった。
けれど、今日私が求めているのは教師からの評価などではない。昨日あの謎の電話をかけてきた人物の正体——その手がかりなのだ。
私はこれまで、自分だけがタイムペッパーを持っている世界線と、タイムペッパーが存在しない世界線の二つしか頭になかった。けれど、別の可能性を失念していたのだ。
「タイムペッパーが存在しない世界線」が数億、数兆と存在するのなら、当然「タイムペッパーが存在する世界線」だって数億、数兆と存在するはずなのだ。
私はたまたま三回連続で「タイムペッパーが存在しない世界線」を引き当ててしまっただけで、だからこそ無意識に「タイムペッパーが存在する世界線は一つしかない」と勘違いしていたのだ。
そして現在、最も怪しい容疑者は陳逸樺だ。……けれど彼女は一体全体、なぜタイムペッパーを破って過去へ戻ってきたのだろう? その理由に酷く興味が湧いてきた。
今夜は夜間日本語クラスがあると言っていた。ならば、その時にじっくりと問い詰めて真実を吐き出させるとしよう。




