第十章 夜の日本語クラス
「この陳逸樺は、僕のいた世界線から来た人間ではないのかもしれない」——その時の僕は、自身の思考に落ちていたそんな重大な「盲点(欠落)」に、まだまるで気づいていなかった。
一時間目の休み時間になるやいなや、彼女は早くも僕の席へと駆け寄ってきた。
「ねえ、オタク華。今日の日本語の授業、どこでやるのか覚えてる?」
「忘れたよ。正直、君に聞きに行こうと思ってたところさ。じゃないと誰が日本語クラスをとってるのかすら分からないしね。君があの台詞を吐いて立ち去っちゃうからさ」
「中学部の一階にある『三年五組』だよ。一番端っこの教室」彼女は指で一定の方向を示してみせた。……ふむ、これほど何層もの鉄筋コンクリートで遮られていると、どこにあるのかさっぱり分からないけれど。
「放課後になったら教室まで案内してよ。君に聞きたいことがあるんだ」
「私に聞きたいこと? 今ここで聞けばいいじゃない。なんで放課後まで待つのよ?」
「……だって、照れくさいんだもん」僕は手で顔を覆い、恥ずかしがる素振り(演技)をして見せた。
「嘘言いなさいよ、この大根役者!」彼女は僕の机の引き出しに突っ込まれたテスト用紙を目にとめた。今朝採点されたばかりの、60点の英語の答案用紙だ。
「嘘でしょ……あなた60点も取ったの!? 普段は0点ばかり叩き出してたあのあなたが、60点!?」
「おいおい、担任の先生と同じ反応しないでくれよ。僕は未来人なんだから、これくらい取れて当然だろ?」
「冗談じゃないわよ、あなたが……ううん、なんでもない。ちゃんと勉強したのね、偉いじゃない」何かを口にしそうになった彼女は、慌てて言葉を呑み込んだ。
「『僕が……』何だよ? 途中で言葉を濁さないでくれよ!」
「なんでもないってば!」彼女はそう言い捨てると、1組の教室を飛び出し、自分の6組へと戻っていったようだった。
◇
放課後になると、彼女は約束通り僕を迎えにやってきた。
「さあ行きましょ、記憶喪失のあなたを日本語教室まで案内してあげるわ」
「あ、サンキュ」
彼女は僕の腕に自分の腕を絡め、ぐいぐいと前へと歩を進めた。男女の「距離感」という概念がすっかり欠落しているかのような振る舞いだ。
僕は彼女の彼氏でも何でもないのだ。過去においても、未来においても、僕は一度だって彼女の彼氏になれたことなんてないのだから。
もっとも、こういう出来事は元の世界線でも起きたことがあった。もしかすると僕はただの「煙幕(避雷針)」として利用されていて、他の男子からのアプローチを跳ね返すためのダミーに過ぎないのかもしれない。
……今の僕だって、ただの煙幕に過ぎないのだろう。なら、彼女がこのまま「恋人ごっこ」を演じ続けるつもりなら、僕だってうまく話を合わせて、最後まで演じきってやろうじゃないか。
僕は彼女の手を振り払うことなく、高鳴る心臓の鼓動(胸のときめき)に身を任せていた。脳内は信じられないほどの混乱に陥り、彼女に引っ張られるままキョンシー(ゾンビ)のように前へと足を踏み出していた。言葉通りの「行屍走肉(生きる屍)」とは、まさにこの時の僕のような状態を指すのだろう。
けれど、このまま受動的でいるわけにはいかない。僕の側から攻撃(追及)を仕掛けなければならないのだ。
ようやく教室に到着し、彼女に席の場所を尋ねると、彼女は本当に僕のすぐ後ろの席だった。
「ねえ、ちょっと聞きたいんだけどさ……なんで君はタイムペッパーを破ったの?」
「えっ? 何言ってるのよ未来人さん、急にギャグ? ウケるんだけど」
「僕は本気だよ。昨日のあの電話、かけてきたの君でしょ? わざと声を変えてさ」
「……私の声だと分かったの?」
「声で分かったわけじゃないよ。ただ今日、君が誕生日の話を出してきた時に違和感を覚えたんだ。この時期の僕は、君の誕生日がいつかなんて知らないし、君だって僕の誕生日なんて知るはずがない。……そして最大の矛盾は『なぜ君が僕が1組にいることを知っていたのか』だ。君は未来人の噂を聞きつけ、僕が教室にいないことを知って、僕がその未来人だと推測したんだろ? 君の推理は実に大胆だったよ。おかげで昨日の僕は生きた心地がしなかったんだからね。……僕の推理、合ってるだろ?」
「……はぁ、どうしてあなたはそんなに勘(論理思考)が良いのかしら。誕生日の件に気づかなかった自分を責めるわ。きっと仲間を見つけた嬉しさと、それがたまたま『あなた』だったから油断しちゃったのね。クラスではずっとうまく取り繕っていたのに」
「羨ましいよ。僕は高校時代の記憶なんて綺麗さっぱり忘れちゃったからさ。教室で『記憶喪失』のフリをして誤魔化すしかなかったんだから」
「私こそ羨ましいわよ。あなたは記憶喪失のフリをしていればいいけれど、私はクラスメイトの名前を全員覚え直さなきゃいけなくて……本当に地獄だったんだから」
「すごく興味があるんだけど、なんで君はタイムペッパーを破ったりしたんだい? 未来の君はあんなに幸せそうだったじゃないか。結婚もしてさ。もちろん僕だって毎年『誕生日おめでとう』のメッセージくらいは送っていたけれど、せいぜいMessenger(Facebookの)で一言送る程度だったろ? あ、この時代にはまだMessengerなんて無いかもしれないな。当時の僕はまだYahoo!メッセンジャーで連絡を取ってたっけ?」
「……何言ってるの? 私が未来で幸せだった……? あなたのいた世界線では、私は幸せだったの……?」
「……僕がそう感じただけだけどね。だってあんなに素敵な旦那さんがいてさ、結婚写真(婚紗照)の君もすごく眩しい笑顔を見せていたじゃないか。十数年も付き合ってたんだろ?」
「そうなんだ……。じゃあ、あなたはどうしてタイムペッパーを破ったの?」
うっ……完全に逃げ場のない袋小路(死胡同)に追い込まれてしまった。まさか今さら「君のために過去へ戻ってきたんだ」なんて口にできるわけがないだろう。そんなことを言えば完全に不審者(不気味なやつ)扱いされてしまう。僕たちが再会(?)して、まだ実質一日目なのだから。
「僕が先に質問したんだから、君が先に答えなよ」
僕はボールを投げ返した。この質問に自分から答えるつもりなんて毛頭なかった。
「私……私は言いにくい理由があるのよ。だからあなたが先に言いなさいよ」
彼女は再びボールを投げ返してきた。タイムペッパーを破る決断をする以上、そこには人には言えない深重な事情(隱情)が存在するものだ。やむにやまれぬ事情があって初めて過去へ戻ることを選ぶのだから。僕のような下らない理由なんて、口にしたら笑いものにされてしまう。
「だったら先にご飯でも食べに行こうよ。少しおしゃべりでもしよう。そんな重苦しい話題は後回しにしてさ」
「いいわね。清華大学の近く(清大商圈)まで足を伸ばしてみましょうか」
言い忘れていたけれど、僕たちの通う高校は「建功高校(建功高中)」といって、新竹では「校風が自由で、制服を着なくていい学校」として知られている。進学校(升學學校)ではないけれど、創立以来制服が存在しないという、全国的にも珍しい学校なのだ。
だから大学に入って「制服ディ(制服日)」といったイベントが開催されると、着ていく制服が物理的に存在しないため、酷く気まずい思いをすることになる。
僕たちは「竹野燒肉飯」という店に入った。
二人とも看板メニューの「燒肉飯(焼肉弁当)」を注文した。この時代の物価が懐かしい。お弁当がひとつ、たったの65元(約300円)なのだから。
「重苦しい話題かもしれないけれど、やっぱり聞いていいかしら。あなた、いつ頃に戻ってきたの?」
「一年くらい前かな。最初は大学に入学したばかりの時期に戻ったんだけど、いろいろ事情があって、高一の時期まで遡って……」
「えっ、じゃあ私と大体同じくらいじゃない! 私は三十五歳から大一へ跳んで、大一から高三へ、高三から今の高二へ戻ってきたんだから。だからあんな大騒ぎになっちゃったのよ」
「えっ……君もそんな遥か未来から戻ってきたの!?」
「えっ、あなたもそうなの!?」
あ……そこで僕はハッと我に返った。僕が別の世界線からこの世界線へやってきたように、彼女だって当然、別の世界線からやってきた人間に決まっているのだ。僕たちが全く同じ一つの世界線から一緒に過去へ戻ってくるなんてこと、あるはずがない。それに三十代という年齢層に限らず、彼女は二十代の時点でこの世界線へ飛び移ってきた可能性だってあるのだ。
なんという愚かな勘違い(錯誤)をしてしまっていたのだろう。もっと早く気づくべきだった。あの世界線で彼女に何が起きたかなんて、僕に分かるはずがなかったのだ。
ならば、目の前にいる彼女は……僕がずっと好きだった「あの彼女」なのだろうか?
僕は心の中で自分自身に問いかけた。
……少なくとも、「三十五歳の男が十六歳の女子高生に恋をする」というペドフィリア的な図式ではないことだけは確定したので、胸を撫でおろしたけれど。……まあ、僕のタイムペッパーは未来へ行くことはできないけれど、もしかすると彼女のタイムペッパーは未来へ進むことができる代物なのかもしれないし、一概には言えないけれど。
「確認させてほしいんだけど……君も未来から現在へと戻ってきたんだよね? この世界には数億、数兆もの世界線(時空)が渦巻いているってことは知ってるかい?」
「当たり前じゃない! 私が過去から現在へタイムスリップしてきたとでも思ってるの? そんなの青春の無駄遣いでしょ、そんなバカな真似するわけないじゃない。それに二つ目の質問だけど、色んな世界線が存在することくらい知ってるわよ。だからこの世界線に『別の世界線から来た人間』がいるって知った時、私がどれほど嬉しかったか分かる!? 私、ようやく一人きりじゃなくなったんだって……!」
彼女は一息に捲し立てると、水を一口飲み、お弁当の白米を口に運んだ。
「……ごめん。君の元の世界線で何があったのかも知らずに、僕のいた世界線の話を一方的にぶつけちゃって。君を傷つけるようなことを言っていたら、本当に申し訳ない」
「あんなに頭が回るくせに、なんでそんな基本的なことに気づかなかったのよ、このおバカさん」
……あっさり突っ込まれてしまった。
「本当にごめんなさい……僕はおバカさんです。救いようのないバカです」
「許してあげるわよ。少なくともこの世界線に、タイムペッパーの存在を知っている人がもう一人いるってだけで、私はどれほど救われたか分からないもの。……それにしても、あなた私よりずっと多く紙を破ってきたんでしょ? 一体全体、何が理由で戻ってきたのよ?」
「……あー、本当に言うのも恥ずかしいくらい、しょうもない理由なんだよ。僕のいた世界線で君が結婚してさ、すごく幸せそうに見えたんだ。だから僕も高校時代に戻って、もう一度青春のキャンパスライフってものを体験してみたくてね。……僕の元の世界線では、青春なんて呼べるような甘酸っぱい出来事、一つも起きなかったからさ」
僕は真実の「核心」を伏せた。今の自分自身に問い正す必要があったからだ。僕は果たして、この世界線に存在する彼女を、この世界線へやってきた彼女を、いまも好きなのだろうか、と。
「……本当にしょうもない理由ね。まあ、あなたにとっては重大なことだったのかもしれないけれど。とにかくあなたが理由を話してくれたんだから、私も教えるわね」
「ついでに、僕のいた世界線での『僕』がどんなやつだったかも教えてよ」
「肥満体のオタク(肥宅)になってたわよ。映画系の学科(電影相關科系)を卒業してから映画の脚本家(編劇)になったんだけど、書いた脚本の評判はあんまり良くなかったみたいね。『国民法官』っていう作品を観に行ったんだけど、ネット上では『この脚本家は死刑廃止団体(廢死聯盟)の回し者か?』なんて叩かれてたわ。私はそれほど酷いとは思わなかったけどね。監督の演出は良かったけど、脚本はまあ普通だったわ」
「うぐっ……面と向かってそんなことを言われると、まるで僕自身が叩かれているみたいで胸がチクチクするよ……」
「あなたが教えてって言ったんじゃない、私のせいにしないでよ! これでさっきの私の気持ちが少しは分かったでしょ?」
「分かった、分かったよ……めちゃくちゃ凹むね、ごめんなさい。でも、僕の元の世界線での落魄ぶりに比べれば、脚本家になれてるだけずっとマシだよ」
「謝らなくていいわよ、ほら、冷めないうちに食べちゃいましょ。もうすぐ授業が始まっちゃうから」
「……君はどうしてタイムペッパーを……いや、やめておこう。これ以上野次馬根性で踏み込むのはやめるよ。さっき君を傷つけちゃったばかりだしね」
「授業が終わったら教えてあげるわよ。そんな大した話じゃないの、大したことじゃない……ただの小さな出来事よ」
それから僕たちは、黙々とお互いのお弁当を平らげた。僕も余計な思案を巡らせるのをやめた。「僕は彼女をまだ好きなのか」という問いの答えは、家に帰ってからじっくり考えればいい。今はご飯を食べて、授業に間に合わせることが最優先だ。
◇
「——ではみなさん、ここに補助詞の『が』を入れるべきか、それとも『は』を入れるべきか、分かりますか?」
僕はすっと手を挙げた。
「先生、『が前は後(がは前接、はは後接の強調)』ですから、ここは『が』を入れるのが適切です」
「施懷華……? あなた、どうして急にそんなに日本語ができるようになったの?」教壇の日本語教師は呆然とした表情で僕を見つめた。
「先生! こいつ未来人なんです! 未来でコソコソ日本語を勉強してきたんですよ!」背後の陳逸樺が声を張り上げた。
途端に教室全体がざわめき立ち、「噂の未来人って、あいつのことか!?」という囁き声が充満した。
「おい! なんで僕の秘密を暴露するんだよ! それに泥棒みたいにコソコソ勉強したわけじゃない!」
「本当ですよ先生! 私、こいつと同じクラスなんですけど、うちのクラスの未来人なんです!」別の男子生徒が立ち上がり、僕を指さした。
……君、僕の記憶に一切存在しないんだけど、誰だよ!
手を挙げるんじゃなかった! うわあああん、結局昨日と同じ展開になっちゃったじゃないか!
「待ちなさい……君が本当に未来から戻ってきたというなら、日本語能力試験(JLPT)は何級を持っているのかね?」
「先生、騙されないでください! 僕、未来人なんて違いますから! ごく普通の生徒として扱ってください! 僕の日本語なんて壊滅的ですから!」
英語の担任に目をつけられるだけでも胃が痛いというのに、日本語の先生にまで目をつけられるなんて御免だ。
僕は絶望的な表情を浮かべた。
「ごめんね」陳逸樺が僕の耳元で小さく囁いた。
「……放課後になったら、絶対に君の事情を僕に教えてくれよな」
選択授業ということもあり、二時間の日本語の講義はあっという間に終了した。
僕は自転車登校だったので、陳逸樺と一緒に駐輪場所へと向かった。
この頃の建功高校にはまだ自転車置き場の屋根(屋根付き駐輪場)が作られていなかったので、各自で適当なスペースを探して停めるしかなかったのだ。
「よし……そろそろ教えてくれるかい?」
「……うん。私ね……彼氏に浮気された上に、暴力を振るわれた(拳腳相向)の。耐えきれなくなって別れを切り出したんだけど、それが相手の火に油を注いじゃって……半殺しの目(半死不活)に遭わされたの。その時、あなたに電話をかけて号泣しながら訴えたじゃない。あなたが私をなだめてくれて、『タイムペッパーを使って過去に戻り、新しい恋愛を一からやり直してみたらどうだ』ってアドバイスしてくれたの。だから私、タイムペッパーを破る決意をしたのよ」
「えっ……?」
「どうしたの……?」
「……その出来事、僕のいた世界線でも起きたんだ。けれどそれは君が大学に入ってからの話だった。彼氏が浮気して、君に物を投げつけたりしてさ。君から泣きながら電話がかかってきたけれど、僕は『タイムペッパーを破れ』なんて言わなかった。ただ『とにかく別れを切り出してみろ』って背中を押したんだ。君は無事にその男と別れることができた……円満なお別れ」とはいかなかったけれど、半殺しの目に遭うなんて悲劇は起きなかったよ。……その元カレの名前、『周任』じゃないだろ?」
「違うわ。……周任って誰?」
「僕のいた世界線で、君が結婚した相手だよ。君の旦那さんだ」
「……どうやら私のいた世界線とあなたの世界線じゃ、運命が随分違っていたみたいね」
「「あなたのいた世界線に行ってみたかったな」」
僕たちは全く同じ言葉を同時に口にし、顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
それから僕たちは、それぞれの家へと帰路についた。
きっと二人の胸の内には、全く同じ思いが渦巻いていたのだろう。




