第十一章 夜、一人で思考に沈む
家に帰り、ベッドの上に横たわりながら、今日手に入れた幾つもの情報を反芻していた。
彼女は浮気され、暴力を振るわれたからこそ、タイムペッパーを破った。
僕はただ、もう一度青春のキャンパスライフを体験したくて過去へ戻ってきた。
どちらの事件も、「僕」が裏で背中を押した黒幕だったのだ。もし僕が彼女のいた世界線で余計な一押しをしなかったなら、この世界線で彼女と出会うことだってなかったはずだ。
そう考えると、自分がいかに罪深い人間であるかを痛感させられる。タイムペッパーショップの店主とは違い、僕のやったことは人を引きずり込んだだけなのだから。これじゃあタイムペッパーショップの店主なんて到底務まりそうにないな、まったく。
……さて、そろそろ自分自身に問い正さなければならない。
「僕は、あの世界線の彼女のことが好きなのだろうか」と。
いま胸の奥にあるこの感情は、果たして「好意(恋愛感情)」なのだろうか、それともただの「同情」なのだろうか。胸の躍動だけは嘘をつかない。胸の奥には確かに一つの感情が存在している。ただ、その感情の正体が何なのか、僕自身まだうまく呑み込めずにいるのだ。
いま分からないのだから、未来へ行ったところで分からないままかもしれない。けれど僕は、こんな曖昧で不透明な感情を抱えたまま、彼女とこの高校生活を過ごしたくはなかった。
彼女はこの世界線に戻ってきてすでに一年が経っている。仮にそうでなかったとしても、彼女の成績は僕より遥かに優秀だ。だからこそ未来の僕たちは、一方は東海大学、もう一方は靜宜大学へと進むことになったのだ。成績の格差はそれほどまでに露骨だった。
こんな底辺の成績しか取れない僕が、あんなに優秀な彼女と仲良くなっていいのだろうか?
これは一種の「自卑」に過ぎないのだろう。けれど、その感情はうつ病を抱えた僕の心の中で不気味に発酵を続けていた。学校では明るい面を被って過ごすと決めたばかりだというのに、彼女の凄惨な過去を知ってしまった今、僕の浮かべる笑顔すら彼女に対する暴力(傷つけ)になり得るのではないかと思えてしまう。
『彼女があんな目に遭ったというのに、お前によくそんなヘラヘラ笑う余裕があるな』
頭の奥底で、そんな冷ややかな声が語りかけてくる気がした。
そうだ、僕によく笑える余裕なんてあったものだ。僕の好きな人が、再び暴力の犠牲になったのだというのに。かつての僕は彼女の泣き声に耳を傾け、どうか他の世界線では同じ悲劇に遭わないようにと祈っていた。それなのに時空というのはどこまでも残酷で、結局のところ別の世界線でも彼女は同じ惨劇に見舞われてしまったのだ。
もしかすると、これこそが「必然性」というやつなのかもしれない。百パーセント絶対に起きるわけではないけれど、限りなく百パーセントに近い確率で発生してしまう未来。僕が自分の祖父が痰を詰まらせる瞬間を目撃するのが「必然の未来」であったように、彼女がドメスティック・バイオレンスに遭うこともまた、回避不能な必然だったのかもしれない。
僕はそんな必然に対して、激しい吐き気(嘲笑)を禁じ得なかった。どうして僕たちが、そんな痛みを理不尽に背負わされなければならないのだ?
あと二年か三年もすれば、僕もまた祖父が痰を詰まらせるあの恐ろしい未来と再会することになるのかもしれない。
僕はあの恐怖に満ちた未来を捨て置き、タイムペッパーの切れ端を再び破った。彼女も同じだ。自分を傷つけるかもしれない未来から逃れるために、タイムペッパーを破ったのだ。
キーボードの上で指を走らせ、一文字一文字を打ち込むたびに、この胸の感情が「恋愛」ではなく「同情」へと傾いていくのを感じていた。
この問題については、元の世界線でも自分自身に何千何万回と問いかけてきたことだった。彼女に対する気持ちは「友情」なのか、それとも「愛情」なのか。結局のところ僕は自分の気持ちを押し殺し、感情の向かう先を愛情ではなく友情のレールへと乗せたのだ。だからこそ僕たちはこれほど長い年月を友人として過ごすことができ、何十年が過ぎても連絡を取り合い続けることができたのだから。
『天上浮雲如白衣、斯須改變如蒼狗。古往今來共一時、人生萬事無不有(天上の浮雲は白衣のようだが、瞬く間に蒼狗へと姿を変える。古往今来すべては一瞬の出来事であり、人生にはありとあらゆる変幻が存在する)』
もしこれが「愛情」に変化してしまったら、その関係は一瞬の幻のように儚く消え去り、二度と未来への繋がりを持てなくなってしまうのではないだろうか?
元の世界線での僕は、その結末を何よりも恐れ、決して正面から向き合おうとはしなかった。
けれど今の世界線で、僕は青春のキャンパスライフを経験したいと望んでいる。彼女が一年間もの間、一度も紙を破らなかったということは、今の状況に満足している証拠なのかもしれない。
だというのに、僕自身の身勝手な都合のために彼女の「現状」を書き換えてしまおうとするのは、あまりにも自我が強すぎる(身勝手すぎる)のではないだろうか?
僕は煩悶し、苦悩し、自分の内面の深層にある感情をどこまでも穿ち掘り返していた。
僕は決して「良い物件(魅力的な恋愛対象)」などではない。むしろ、相当に質の悪い物件と言っていい。暴力を振るうような真似は絶対にしないと保証できるけれど、僕の抱えるうつ病が彼女に毒を撒き散らさないという保障はどこにもないのだ。その上僕は冴えないオタクで、ユーモアの効いたトークもできなければ、甘い言葉で女の子を口説く器用さもない。一言で言えば、ただの「木石(朴念仁)」なのだ。
そんな僕が、あろうことか「恋愛」を期待しているなんて、高嶺の花を望む「身の程知らず(癩蛤蟆想吃天鵝肉)」もいいところではないか。
彼女はいま、恋愛に対して強い恐怖を抱いている段階なのかもしれない。そんな彼女の傷口を、僕がわざわざ抉る必要がどこにあるのだろう。……けれど、僕は自分自身のためにタイムペッパーを破ったのだ。もしこの世界線で奇跡を起こすことができないのなら、僕はまたタイムペッパーを破らなければならないのだろうか? 次はこれほど運よく、同じタイムトラベラー(時空の旅人)と巡り合える保障なんてどこにもないのに。
どれほど時間をかけても、僕はこの胸の感情が同情なのか愛情なのかを判断できずにいた。もしかすると真実を知るのが怖すぎて、僕の心が自己防衛メカニズム(保護機構)を作動させ、これ以上深く掘り下げるのを拒んでいるのかもしれない。
僕は薬を口に放り込み、ベッドに横たわって睡魔が訪れるのを待った。
明日、僕は一体どんな顔をして彼女と向き合えばいいのだろう?
学校へ行く時に被る「微笑みの仮面」なのか、それとも哀れみに満ちた同情の表情なのか。
彼女はこの世界線で僕という「タイムトラベラー」に出会えたことを喜んでくれた。僕だってこの世界線で彼女という「タイムトラベラー」に出会えたことが嬉しかった。……けれど、彼女は大きな「傷痛」を抱えて戻ってきたのだ。それに引き換え僕は、ただのくだらない「心残り(遺憾)」を抱えて戻ってきたに過ぎない。二人の背負う重みは、端から比較にすらならないのではないか?
……そうだろ?
こんな悩みを打ち明けられる相手なんて一人もいなかった。クラスメイトたちとはまだ打ち解けていないし、いま一番距離の近い存在は彼女だけれど、彼女本人にこんな相談ができるはずもなかった。
やがて僕は、ゆっくりと夢の深淵へと沈んでいった。
◇
夢の中の僕は、相変わらず空を飛んでいた。けれど僕の隣には、あの陳逸樺の姿はなかった。
見知らぬ場所の上空を飛んでいると、眼下で彼女が見知らぬ男から激しい暴行を受けているのが見えた。僕は上空を旋回するばかりで、どうしても地上へ降りていく勇気が出なかった。……こんな意気地なしの癖に、胸の中の感情を「愛情」だなんて呼べるだろうか? 友情にすら届かない代物じゃないか。
助けに行こうと何度も試みたけれど、風が容赦なく僕の身体を上空へと押し戻してしまう。僕は腹をくくり、両腕——僕を大空へ羽ばたかせていたあの一対の翼を固く折りたたみ、自らの身体を地面へと叩き落とした。
痛みに耐えながら彼女たちの元へ駆け寄ったけれど、僕の手は彼らの身体をすり抜けてしまうだけだった。僕はただ、彼女が目の前で殴りつけられる光景を、指をくわえて見ていることしかできなかったのだ。
その心折れる悲惨な光景に、僕は跳ね起きるように目を覚ました。
確信した。いま僕の胸にあるこの感情は「同情」だ。決して愛情などではない。この世界線の彼女と出会ったことで生じた感情は、同情でしかなかったのだ。
けれど、その結論は僕の胸を激しく締め付けた。張り裂けそうなほど心が痛み、涙が溢れそうになった。僕の「心」と「脳」が激しい死闘を繰り広げていた。二つの全く異なる感情が、どちらが「一番(本物)」であるかを懸けて争っていたのだ。一番になった感情だけが生き残り、それ以外は砕け散って心の最深部へと沈殿していくのだから。
薬を飲んだというのに、どうしてこんなにも胸が痛むのだろう?
己の感情から目を背けているからだろうか? それとも、この感情が「恋」ではなく「同情」なのだと認めてしまったからだろうか。
僕は痛む胸をきつくかき抱き、自分自身に問いかけ続けた。
「僕は本当のところ、彼女のことが好きなのか、嫌いなのか」
問い詰めれば問い詰めるほど、胸の傷口は深くなっていく。僕は彼女の傷痕に触れるのが怖かったし、自分自身の傷痕に触れるのも恐ろしかった。けれどこのままでは、永久に終わり(終点)なんて訪れないのだ。
僕は自分の心を無理やりにでも切り開き、一番奥底にある「本物の感情」を拾い集め、繋ぎ合わせなければならない。一番の座を懸けて、何度も何度も戦い直さなければならないのだ。……自分自身を否定したくなんてないのだから。
結局、僕はその痛みを抱えたまま、再び深い眠りへと落ちていった。
明日を迎えよう。朝が来れば、何かしらの答えが出るかもしれない。
……そういえば、明日は日本語の授業がないんだった。次の授業は明後日だ。顔を合わせる機会が減ることは、いまの僕たちにとって、お互いの感情を冷ます(沉澱)良い冷却期間になるのかもしれない。




