第十二章 翌日の登校
翌朝、母さんがまたひと苦労して僕を起こしてくれた。この薬の強力な効き目には、本当に感謝している。
朝食を済ませた後、僕は自転車にまたがり、学校へと向かった。
「お前、記憶喪失になったって聞いたから、とりあえず塾は全部解約しておいたよ。放課後はまっすぐ家に帰りなさい」と母さんは言った。
「あ、うん、サンキュ」高校時代、家庭教師以外にどこの塾に通っていたかなんて、まったく覚えていなかった。
今日の一時間目は英語だ。正直に言って、悲しみの二乗といった心境だった。どうか今日は先生からマークされませんようにと祈るばかりだ。
自転車で学校まで二十分ほど。この道のりは、未来のそれとは全く異なっていた。元の世界線では取り壊されて高層ビルが建ち並んでいた眷村のエリアが、いまはまだ赤い瓦屋根の古い家並みを残している。その風景を見ていると、何とも言えない懐かしさに包まれた。
なんとか三分前に校門をくぐり抜け、危うく遅刻として記録されずに済んだ。
ぶっちゃけた話、こんな朝早く起きる生活には到底慣れそうにない。なんで台湾の学校はこうも朝が早いのだろうか。朝礼のたびに小テストまであるし。うちの学校は進学校じゃないと威張ってみたところで、先生たちのやり方は完全に進学校そのものじゃないか。
僕のいた元の世界線では、生徒たちが教師の罷免運動を起こし、「不適格教師」の署名運動まで発展したことすらあった。全国の高校広しと言えども、あんな事例はうちの学校が『全国初』だったのかもしれないな。
教室に入ると、黒板には「今日の朝礼は朝の自習、小テストなし」と書かれており、僕は胸をなで下ろした。
「おはよ、小玉、ア哲、ハンサム。最初の週だし、さすがに宿題なんて出ないよな?」
「だといいけどね」
「出ても大したことないだろ。お前、宿題嫌いなのか?」
「宿題が好きな人間なんているかよ……」
「未来人さん、大学って宿題とかないの?」
「あー、それがさ、大学は大体グループワークだったり、たまに抜き打ちの小テストがあるくらいで、高校みたいな『宿題』ってほとんどないんだよ」
「それってめっちゃ幸せじゃん!」
「いやいや、全然幸せじゃないからね。グループワークなんてめちゃくちゃキツイんだから。正解なんて決まってないし、必要な資料は全部自分でネットや図書館で調べなきゃいけないし、メンバー間でスケジュール調整もしなきゃいけない。その上でプレゼン用のスライドにまとめなきゃいけないんだからさ。高校の宿題なんて正解が決まってるし、友達同士で写し合えるだろ? テストも同じだしさ」
「お前が宿題終わってないなら、俺のを写させてやってもいいけどさ。まあ、先生にすぐバレるだろうけど」
ア哲はクラスの優等生だ。僕みたいに成績が平均値を下回っている人間が彼の宿題をそのまま写したりしたら、一発で不自然さに気づかれてしまうだろう。
「ダメダメ、宿題は自分でやらなきゃ。お前のを写したら一瞬で教師の目に留まるって」
「おいオタク華、お前そんなに真面目ぶっちゃってさ」後ろからハンサムが茶化してきた。
「ちっ、写すならお前のを写すに決まってるだろ」
休み時間になった途端、トイレから戻ってきた僕の背後に忍び寄った誰かが、突然僕の首に腕を回して抱きついてきた。
「ちょっと、僕いまトイレから出てきたばかりなんだけど。汚いからやめてよ」
「そんなの気にしないもんねー。ねえオタク華、昨日話した秘密、絶対に他の人に言っちゃダメだからね」
「よくそんな口が叩けるな。昨日の日本語クラスの時、僕を裏切ってバラしたの誰だよ?」
「へへっ」
軽はずみなことは言えないけれど、彼女はすでに「微笑みの仮面」を被り直しているように見えた。昨日のような陰りのある表情は微塵も感じられない。
この世界線で一年を過ごすうちに、彼女は自分の青春の幸福を取り戻すことができたのかもしれない。
けれど、僕にはまだそれができていない。ここへ来てまだ三日目だというのに、現実味がまるで湧いてこないのだ。
「ほら、さっさと自分のクラスに戻りなよ」僕は振り返り、彼女に微笑みながら言った。
正直に言って、自分が「煙幕(避雷針)」扱いされるのはあまり好きではない。けれど、この青春の甘酸っぱい空気感をどこか楽しんでいる自分がいるのも事実で、そんな自分が我ながら心底情けなかった。
それに、以前の僕なら彼女の束縛から慌てて逃げ出そうとしていたというのに、今の僕は彼女の腕を振り払うことすらできずにいる。
もしかすると彼女は、僕という存在に安心感を求めているだけなのかもしれない。だって昨日、彼女自身が「私と同じ時空の旅人がいるって知って、すごく嬉しかった」と言っていたのだから。
福祉・ソーシャルワークを学ぶ者としての感情がふと頭をもたげたのか、僕は「この世界線の彼女を守ってあげたい」という強い衝動に駆られていた。
——だが、その前にハッキリさせなければならない。この世界線における僕の感情は、果たして「同情」なのだろうか、それとも「愛情」なのだろうか。その答えを出すために、僕は一歩を踏み出さなければならない。
「今日、放課後に図書館で待っててくれないか? 少し、はっきりさせておきたいことがあるんだ」
「図書館? いいよ、じゃあマンガコーナーで待ってるね?」
「うん、助かるよ」
彼女はそう言い残すと、風のように去っていった。相変わらず嵐のような女だ。大人になっても、そして高校生の今も、それは全く変わっていなかった。
うちの学校の図書館は建て替えられてから新竹市内でも有数の大きさを誇るようになり、館内には生徒が寝転がったり床に座って読書できる専用スペースまで用意されている。それが僕のささやかな自慢であり、「建功高校の卒業生であること」に対する誇りを一段と深めてくれる要素の一つだった。
今日の授業もようやくすべて終わった。けれど、そんな授業の内容なんてどうでもいい。脳のゴミ箱にでも放り込んでおこう。
僕は緊張に身を固くしながら図書館へと足を踏み入れた。ここはかつて中学生の時にアルバイトをしていた場所だ。正直に言えば恐怖心もあったけれど、同時に激しい懐かしさもあった。なぜなら、学校の図書館には高速のブロードバンド回線が通っていたからだ。自宅はいまだにダイヤルアップ接続だったから、僕はよく学校のネットワークをこっそり使ってアニメをダウンロードし、MP5プレイヤーに入れて鑑賞していたものだった。
「おや、施懷華じゃないか。久しぶりだな」
「あ、先生、こんにちは」
実は、図書館にどんな司書や先生がいたかなんて、もうすっかり忘れてしまっていた。「未来人だ」とか「記憶喪失だ」といった噂は、どうやらまだここまで届いていないらしい。
図書館の奥にあるマンガコーナーの一角へと進むと、陳逸樺がそこに座り、マンガのページをめくりながら僕を待っていた。
「やあ、お待たせ」
「あ、オタク華、このマンガ結構面白いよ」
表紙を見ると、手塚治虫の『ブラック・ジャック』だった。さすがに名作だけあって、確かに面白い作品だ。
「それで、僕をここに呼び出したのって、何か用件でも?」
「ごめん、率直に言うよ。昨日僕は嘘をついたんだ。本当はね、僕は君を追いかけてこの時代に戻ってきたんだ。君が結婚したのが羨ましかっただけじゃない。一番悔しかったのは、結婚相手が僕じゃなかったことなんだ。自分がろくでもない人間だって分かっているのに、それでも君を追いかけたいと思ってしまった。でも、自分の胸にあるこの感情が『同情』なのか、それとも『愛情』なのか、自分でもどうしても整理がつかなくて……昨日ずっと自問自答していたけれど、答えなんて出なかった。僕はいま、うつ病を抱えたただの無力な人間だ。だから、君に釣り合わないなんて分かっている。……それでも、君に告白したかったんだ」
「実はさ……あなた、高一の時にYahoo!メッセンジャーで私に告白してくれたことがあったんだよ。でも、あの時のあなたは、いま目の前にいるあなたとは違う時空から来たあなただったけれど」
「えっ、僕が高一の時に告白したことあったの?」
「そうだよ。ただ、Yahoo!メッセンジャー越しだったけどね。本当に臆病だな、直接面と向かって言えないなんてさ。……でも、いまこの時代にいるあなたはすごく大胆だよ。こうして直接私に告白してくるんだから」
「うん……ちゃんと言葉にしないと、自分のこの気持ちが愛情なのか友情なのか、僕自身分からなくなりそうだったから」
「……だけど、これだけ長い年月が過ぎても、あなたがまだ私のことを好きでいてくれたなんて思わなかったよ」
「僕だって分からないよ。この気持ちが当時と変わらずに『変質』していないかなんて」
「……でも、ごめんなさい。私、あなたの告白を受け入れることはできないかもしれない。だって私、あんな酷い目に遭っただから……」
「あ、ごめん! 自分の傷痕を抉ることになるって分かっていたのに、僕の身勝手な都合で君に告白なんてしちゃって……」
「謝らないで、本当に謝らないでいいから。あなたの気遣いも分かっているし、昨日のあの嘘だって見え見えだったもの」
「昨日の僕の嘘、もう気づいていたのかい?」
「当たり前でしょ。あんなにオドオドして動揺していれば、誰だって気づくわよ。ただ、あえて突っ込まなかっただけ。まさか今日、あなたから自分ですべて白状しにくるなんて思わなかったけどさ」
「ごめん……って、また無意識に謝っちゃった。悪癖だな、これは」
「ううん、気にしないで。……ねえ、あなたのその『ごめん』はわざとじゃないかもしれないけれど、私はちゃんと許してあげるから」
「君が許してくれたって、僕自身が自分のことを許せないんだよ」
「自分で自分を許すことを覚えなきゃダメよ。そうしないと、いつまで経ったって前に進めないんだから。……私たち、これからも友達のままでいようよ」
「ごめん、また君を傷つけてしまった。やっぱり、こんなことするべきじゃなかったんだ」
僕はポケットからタイムペッパーを取り出し、もう一度半分に破り捨てようとした。その瞬間、彼女が突然僕にしがみついてきた。それは冗談めかしたスキンシップなんかじゃなかった。彼女の体が小刻みに震えているのが分かった。僕の手もまた、激しく震えていた。
僕がタイムペッパーを破ろうとしたあの行動は、単なる「情動的な脅し」であり、逃避に過ぎなかったのかもしれない。
「オタク華、あなたがここにいてくれることが、私にとってどれほど大切なことか……! 私には、この時代にあなたが必要なの。だからお願い、タイムペッパーを破らないで。私と一緒に、これからの大学生活に向き合ってよ……!」
彼女は今でも、あの凄惨なドメスティック・バイオレンスの悪夢を恐れているのだ。彼女がそこまで真近に懇願する以上、「友人」を自負する僕が、再び同じ悲劇が繰り返されるのを黙って見過ごすわけにはいかない。この時代にやってきた彼女を守るために、僕はもう逃げ出すわけにはいかないのだ。
僕はまたしても、自分の胸の奥にある「愛情」を心の底深くへと押し殺し、封じ込んだのだった。




